ギソウ、ケッコン (Stage4)



31

 蝉の声を聞いたのは、今年初めてだった。
 それは夏の始まりを告げる使者の声のように辺りに響き渡る。
 人の体に刻まれた時計は、それによって夏の到来を知る。まるで、自然のアラームだった。
 ベランダで洗濯物を干しながら、その声を聞いていた。
 また、今年も暑い夏が始まったのだ、と思った。いつもと同じようで、けれども決して同じではない、夏。今年の夏は、どんな夏になるのだろう。まだ今この時は、物語で言うならば、ただの「序」の部分に過ぎない。
 そんなことを考えながら、風に揺れる洗濯物を見つめていた。
 しばらくそうしてから、網戸を開けて、リビングの中へと入る。そこでは、彼がソファに座って、新聞を読んでいた。
 それだけを見ると、私達は、どこにでもいる、何の変哲もない、若い夫婦だった。
 休日をのんびりと過ごしている、ある若夫婦。
 けれども。
 よく観察をしてみると、どこか、何かがおかしい事に気付く。
 例えば。
 ベランダに干してある洗濯物が、タオル類とあとは女物ばかりで、しかも、そこには下着類が一切ない事だとか、その下着類が、実は私の部屋の中に干されている事だとか。そして、そこに一度も干された事のない男物は、定期的に、近所のコインランドリーに持ち込まれている事だとか。
 そんな景色の細部に目をやってみれば、どこかしら、何かが『間違っている』、それが、私達『夫婦』の日常だった。
 リビングへと入って来た私に、彼は、つと新聞から目を上げた。
「随分長い間外にいたけど」
 案外見てないようで、見ているんだなと思った。
「蝉が、鳴いてた」
「ああ、そういえば」
「今年、初めて聞いたから」
 彼はそれを聞いて少し黙った。それからそうだったかな、と少し考えるふうに首を傾げた。
「好きなの?蝉」
 それを聞いて今度は私が少し黙った。
「蝉自体は別に好きってことはないけど。寧ろ、虫は駄目だし。ただ、風物詩としての、蝉は好きかなって」
 質問の仕方に何か違和感を覚えながらも、私はそれに対して真っ正直に答えた。真っ正直すぎるほどの、答えだった。
 そんな真摯に「好きか」と問われたら、例えば、それが食べ物だったり飲み物だったりしたら、簡単に好きか嫌いかで答えられるだろう。けれども、そこで、「蝉が好きか」などというふうに問われたら、どう答えればいいのか、よくわからなくなる。そんな問い自体、予想もしていなかったことで、大体、蝉というものが「好きか嫌いか」などとは、今まで考える対象ではなかったのだ。
 取り立てて好きとか嫌いとか考えた事はなく、けれども、しいて言うならば、ただ、なくてはならないもの。自分の生活の一部を構築するものとして、欠かすことの出来ないもの。敢えて言うならば、そんな部類に含まれるもののひとつとして、「蝉」がある。
「ふうん」
 至極真っ当なその返事に、彼は笑うでもなく、ただ、そう言った。
 一体、何を思ってそんなことを聞いたのか。
 また新聞に目を戻した彼に、今度は私が問うてみた。
「何で、そんなこと?」
 そんなことを、聞くの?
 彼は、またつと目を上げた。静まった目だった。
「知りたいから」
 ――知りたいから
 いつかの夜も聞いた、シンプルすぎるほどの、明確な答え。
 そこに何も差し挟む余地のない、簡潔な言葉。
 私は洗濯物が入っていたカゴを持ったまま、彼の前に立っていた。
 ゆらり、風で窓のカーテンが、小さく揺れる。
「それ以上の答えが、今必要?」
 手の新聞を膝の上に置いた。
 それを見て私は静かに首を横にふる。
 また、外で蝉が鳴きだした。



 それが、今年の静かな夏の、始まりだった。



32

「どうですか?その後」
 会社のビルの一階に、社員のための簡易カフェが設えてある。そこでは社員が休憩したり、訪れた客との打ち合わせをする為に、よく利用していた。ガラス張りの通りに面したその一角には、白いテーブルと白い椅子が並べられてあって、ちょっとした小洒落たカフェの雰囲気があり、社員には好評だった。飲み物こそセルフサービスだったが、社員であれば、誰でも無料でそれを利用できるとあって、いつも誰かしらの姿がある。ちょっとした息抜きには最適の場所だった。
 その場所に、偶々休憩の時間に行き合わせた後輩と、机を差し挟んで向かい合っている。
 彼とは課が違うので、あまりこうしてゆっくり話す機会も最近ない。以前、帰りの電車で偶々一緒になった時以来だった。
 アイスコーヒーの入った紙コップを持ち上げながら、彼の質問に答えを返す。
「どうって、何が?」
「何がって」
 後輩は啜っていたオレンジジュースから口を離すと、そう言った。コーヒーではなく、オレンジジュース、という選択が、まだ残る彼の子供っぽさを物語っているようだった。
「結婚生活に決まってるじゃないですか」
「ああ」
 この時間、まばらにしか人の姿のないカフェに、彼の声は快活に響いた。
「どうって、別に」
「別にって、素気の無い返事だなあ」
 彼は軽く肩を竦めて見せた。
「ひょっとして、本当は上手くいってないんじゃないですか?」
 そう言うと、彼は少し身を乗り出すようにして私を見ると、急ににっ、と笑った。
「先輩、『その時』は、いつでも言ってください、俺、受け皿になりますから」
 はん?として見ている私に、彼はまたにっ、と笑った。
「俺、いつでもOKですから、先輩だったら」
 まるで子供がはしゃぐように、にこにことしている。
 結構な問題発言を、何か楽しい話題でも話すようにしている後輩の顔をしばらく眺めた後で、私は手に持った紙コップをトン、とテーブルに置くと、軽く手を組んだ。
 そして軽く彼を見据える。
「受付の、R嬢――」
 その名を口にした途端、彼の顔がギョッとなった。
 まったく、私が何も知らないとでも思っているのだろうか?調子のいいことばかり。
 社内の噂の伝達力ほど恐ろしいものはない。それはおそらく、伝染病に匹敵する力だ。一度誰かに感染すると、止め処なく、驚く速さであらゆる方向へと広まっていく。水面下での進行を、防ぐことも出来なければ、止める術もない。ワクチンのない、強力な伝染病というわけだ。
「あ、いや、それは」
 見るからに、明らかに動揺している。
「あっちが一方的に――」
 まだ何も言っていないのに、もう自分から口を割っている。
 確かに、受付のR嬢というのが、彼に一方的に熱を上げたのは事実らしい。けれども最近では、彼もまんざらではなくて、結構中々に、上手くいっているらしい、というのが社内での専らの評判だった。
 だったらもう、一方的も何もないはずだ。
「生憎だけど」
 軽く眉を上げて応戦する。
「別に心配なんてしてもらわなくても、ちゃんと上手くいってるから」
 そう言い放つと、彼は少しバツの悪そうな顔でうつむいて頭を掻いていたが、すぐに思いなおしたように顔を上げた。
「先輩、明日、久し振りに飲みに行きませんか」
「あ?」
「そのことで、いろいろと、聞いてもらいたいこともあるし」
 なんだかいろいろと、相談されそうだ。人の恋愛相談(もしくは人生相談)に乗れるような性質ではないと思うが、手塩にかけて育てた後輩の頼みとあれば、どうにも嫌と言えない。
 まあ明日は、家で晩ご飯の日でもないし。
「別に、いいけど――」
 そんなこんなわけで、明日は後輩と飲みに行くことになった。


「明日は会議で遅くなるから」
 晩ご飯を食べている時に、彼がそう言った。
 最近、自分の予定を言って行くことが増えた。
 食卓に並んだ料理に箸をつけながら、私も口を開く。
「あ、私も明日は、後輩と飲みに行くことになったから」
「後輩?」
「ほら、前に、駅で会った」
 彼の箸が一瞬止まる。
「二人で?」
「まあ、多分」
 彼の手がゆっくりとサラダをつつく。
「そんなに身軽に承諾して、怪しまれないの?」
 予想外の問い掛けに、思わず彼を見る。
「え」
 ――俺たちのこと、と言う彼の言葉に、今日の後輩の言葉を思い出して、ちょっとドキリとする。
「それは大丈夫だと思う。ちゃんと、『上手くいってる』、って言っておいたから」
 サラダをつつきながら聞いていた彼は、また手を止めた。そしてサラダに視線を止めたまま、口角を僅かに上げると、微笑した。
「そう、上手くいってるの、俺たちって?」
 緩やかに、目を上げる。
「――」
 何故だろう。
 絶句して、その質問に答えることが、出来なかったのは。



33

 仕事から戻ると、風呂場でシャワーの音がしていた。
 今日はそれぞれで食事をとる日だったので、彼はもう夕食を終えているようだった。人には習慣というものがあり、彼が風呂に入るのは、食事を終えてからと決まっていた。だから、彼が風呂場を使っていると、ああもう夕食が済んだんだな、ということがわかる。
 そういうことがわかるようになったのも、彼との共同生活が、もう幾分の長さになったことを示していた。時間というものは、サラサラと流れ落ちる砂の如く、気付かないうちに、過ぎ去ってしまうものなのだ、と改めて思う。改めて思うと、時間という概念に、如何に普段頓着していなかったか、と思いはまた別の方向へと繋がっていく。
 そんなことを考えながら、服を着替えて、キッチンへと移動した。今日は久々に、コンビニ弁当を買ってきたので、それが入ったビニール袋を提げていく。
 電子レンジに弁当を入れた後、ゴミを捨てようとゴミ箱のフタを開けると、中に捨てられた弁当の容器が目に付いた。彼も今日はコンビニかスーパーで弁当を買ったらしい。
 何だ、それなら何かうちで作れば良かった、とふと思った。
 そう思ってから、自分のそんな考えに、不思議な思いがした。今までこういう事が無かったわけではないのに、ふとそんな事を考えたのは、初めてだと思った。
 レンジの電子音が温めの終了を告げる。あっけない調理の終了に、物足りなさすら感じながら、ドアを開けた。何だろうか、この殺伐とした空気感。かつては何も感じることのなかった生活の一端が、今までとは違った色を帯びている。
 そう、色だ。この生活を始めてから、自分の生活に、今までなかった色が、様々に溢れている。
 桜の花の色、グレーのパジャマの色、野菜の色、トマトピューレの色、数々の食器の色、掃除用洗剤の容器の色、夏の空の色。
 身の回りに増えたもの、揃えたもの、今まで気付かなかったもの。合わせて、雑多に、色々に、目に溢れんばかりの色が、本当に様々に自分を取り巻いているのだということに気付く。
 そう言えば、以前テレビでどこぞの偉いお坊さんが、「『色』というのは、仏教では、『目に見えるもの、形づくられたもの』のことを指す」と言っていたことを思い出した。『色』即ち、この世にあるもの全て、と言う意味だそうだ。
 そうすると、私は今までその『形あるもの』たちに、如何に無関心だったか、という事になる。『無味乾燥』という言葉があるが、それまでの生活は、まさしくそんな状態だったのかもしれない。
 『色』の無かった生活は、何にも気付かず(または気付けず)生きていたことになる。
 レンジの電子音に感じた殺伐さは、そんなところに通ずるのかもしれない。
 突然、その時轟音が響いた。
 外からの音だった。
 音と同時に、雷のような光の束が窓の外で弾けた。
 驚いて窓から外を見ると、また轟音と共に、空に光の花が一瞬浮かび上がる。
 花火だった。
 ベランダのガラス戸を開けて外に出ると、音のする方向を見上げる。それはマンションから比較的近い場所で、打ち上げられているようだった。
 そう言えば、いつだったか、市の花火大会が近くの河川敷で行われるというお知らせが、ポストに入っていたのを思い出した。それが今日だったのだ。通りで、帰って来る道々、いつもより人出が多かった筈だ。
 そんな事を考えている間にも、光の花は次々と夜空に舞い上がって行く。赤や青や緑に黄色、白に紫、あらゆる光の塊が、空で弾けて花になる。大きい花や小さい幾つもの花、枝垂れて咲く花、その形も様々に、広い夜空のカンバスに、思い思いに花を咲かせるように開いていく。
 溢れる光の色。またここにも、色がある。本当に沢山の、溢れんばかりの瞬く色。
 自分の中に新しい彩りがひとつ、またひとつと、増えていくのを感じながら空を見上げる。鮮やかな、儚い、夢のような色の饗宴。
 後ろのガラス戸が開く音がして、振り返ると、パジャマ姿の彼が立っていた。
「へえ、花火か」
 驚いたような表情をしていた。
 どうやら彼も今日のことを知らなかったらしい。
 サンダルをつっかけて、ベランダに下りてきた。
 並んで横に立つと、仄かに石鹸の香りがした。髪は、まだ濡れたままだった。
「結構近くなんじゃないか」
「河川敷だって」
「ああ、あそこなら広いからな」
 そう言った後、互いに黙って夜空を見上げた。空に次々に繰り広げられる夏の饗宴に、心を奪われたように見入った。
 こうして二人で見ていると、一緒に何かを共有しているようで、不思議な気分になってくる。
 まるでずっと昔から、彼とは家族のような気さえしてきて、一緒にこうしていることが、当たり前の日常の風景みたいだった。
 そっと目を横にやると、空の花に魅入られている彼の横顔が、明滅する光に時折照らされている。鼻筋の通った横顔に、こんな顔をしているんだなと改めて思った。思わずしばらく見ていると、視線を感じてか、彼もこちらを見た。
 間近で目が合う。
 何となく、逸らせなくなった。
 何か言葉を口にしようとしても、こんな時に何を話せばいいのか咄嗟に思い浮かばない。
 向こうもそう思っているのか、ただ視線ばかりが合ったまま、言葉も無く時だけが行き過ぎていく。
 空の色を映してか、空気の色さえ変わり始めたような気がした。
 そして今までに無い奇妙な空気が出来上がってしまう、その前に、二人をようやく救ったのは、とびきり大きな花火だった。
 今までの中で一番大きな花火が、一際大きな音と共に、夜の空に駆け上がっていく。
 昇る竜のようなその光は、見た事もない大輪の花を空一杯に咲かせると、その花弁のひとつひとつを縮らせるように、バチバチと派手に明滅しながら、空の中に散っていく。
 盛大に命を散らせる瞬間だった。
「何尺玉かな」
「うん」
 救われたようにどちらからともなく紡がれた言葉は、再び見上げた夜空に消えていく。少し出てきた風が、暑さに火照った肌を撫でた。
「思うんだけど」
 やっと機を得たように、私は口を開いた。
 先程の重苦しい空気は、幾分薄らいでいた。
「これからは出来る限り、うちで晩ご飯を作ろうと思う」
 勿論二人分、という意味で言ったつもりだったが、口にしてから、それがどう伝わったかと思った。
 彼にしてみれば、果たしてそれがいいことなのか、悪いことなのか。
 ありがた迷惑な話なのかもしれないし、もしかしたら、私ひとり分だけのことを言っていると受け取ったのかも知れない。
 そう思いながら隣りを見ると、彼はまだ夜空を見上げていた。
 そしていつになく和らいだ目をそこに向けながら、短くこう返した。
「そうしてくれると、助かる」


 次の日から、私達は、毎晩のように、机を挟んで向かい合う事になる。



34

 国境を。
 無くすことになった。
 私たちの間にあって、この生活を象徴しているかのような、境界線。
 それは、冷蔵庫という共有地に引かれた、ひとつの線だった。
 相談の結果、それを取払って、冷蔵庫全体を、二人で共有することになった。
 ご飯を作る頻度が増えれば、それに従って、冷蔵庫に入れる物も増えることになる。
 今まで上下に分けて使っていた冷蔵室には、どうせ互いに大したものは入れていない。せいぜい水とかお茶とかビールとか、あとつまみくらいのものだ。反して野菜室は一杯で、料理の材料は大抵そこに放り込むか、あと私のスペースに置いていた。これから晩ご飯をほぼ毎日のように作るとなると、そのスペースだけではどうしても足りなくなってくる。
 冷蔵庫を開けてそんなことを考えていたら、ひょいといつの間にか、後ろから彼が覗いていた。
「そこ、使っていいから」
 考えていることがわかったらしい。いとも簡単に、自分の領地を明け渡すことに、同意した。というより、自らすすんで差し出した、といったほうが良かった。
「どうせ一人で使うには広すぎるし、ならもっと有効活用したほうがいい」
 さりげなくそう言ったのは、彼なりに食事の世話になることに、気を使っているのだろう。
「だったら、もうこれやめにしない?」
 そう言って上下を隔てている仕切り板を指す。元々、もっと段があったのを、敢えて二段だけに減らして使っていた。だから、やけにひとつのスペースが広いのだ。
 彼の反応を見ようと振り返ると、真後ろに立っていた。
 いくらか私より上背がある分、見おろすかたちになっている。その顔が、あっさりと頷いた。
「じゃあそこ、どかすから」
 そういうと、私と冷蔵庫の間に割って入って来た。正確には、伸ばした腕が、私の顔を掠めて、中のペットボトルやなんかを取り出し始めたので、一歩横へと避けた。微かに、汗ばんだ肌の臭いがした。
 取り出したものを、システムキッチンの作業台の上に並べていく。並べ終わると、私のスペースのものも一緒に出してくれるよう頼んだ。もうこうなると、共同の一大イベントのようになってくる。「早く閉めて」と催促せんばかりの冷蔵庫の警告音を全く無視し、作業台の上に、次々と物が乗せられていく。
 そしてすっかり出し終わった後、今度は収納に仕舞ってあった、元々付いていた段の、他の仕切り板を持って来て、全部はめてもらった。
 はめ終わると、冷蔵庫は元の機能的な姿を取り戻して、生まれ変わったように活き活きと見えている。
「へえ、こんなに段があったんだ」
「これだったら、たくさん入るから、何でも入れられる」
 元の立派な姿を取り戻した冷蔵庫を前に、二人して、妙に感心して眺めた。
 上下に分かたれていた国境は、今ようやく見事に統一を果たしたわけだ。
 何となく雰囲気でさえ、めでたい気分になった。
 それからまた二人して、中にあったものを再び入れなおす。今度は種類別に、そして、大きさ別に、並べていく。あれはこっち、これはあっち、とやっているうちに、「え、これはここじゃない?」「いやそこ入らないから、こっちだろ」とああでもないこうでもないというふうに、冷蔵庫の前に二人並んでやっている。
 入れ場所も決まり、ようやく一家庭の冷蔵庫らしくなったそれを改めて眺める。ポケットに収納されたそれぞれの飲み物以外は、共有物だ。「共有物」という言い方も、今になって考えると、何だか変な感じだった。
 入れ場所を再度確認してから、扉を閉める。すっかり冷気の逃げた体内を弄くられることから、やっと解放された冷蔵庫はほっとしたように、また微かな唸りを上げ始める。閉めた扉に貼りついたクマとウサギのマグネットは、相変わらずユルい笑いをその上で浮かべていた。
 そのうちに、彼らの仲間も増やさなければならないだろう。貼り付けるものが、今後増えそうだ。
「あ」
 私は思い出して声を上げた。
 彼が首を捻ってこちらを見る。
「買い物に行かないと」
 晩ご飯が増えることによって、数日分のまとめ買いをすることにしたのだ。そう頻繁にスーパーに寄るのも大変だった。
「だったら」
 隣りで彼が応えた。
「車、出そうか?」
 渡りに船、とはこういうことを言うのだ、と思った。
 船ではないが、車を出そうか、と彼は言ったのだ。
 実はうちには自転車がない。だから、買い物に行くのは、いつも徒歩だった。比較的近距離とはいえ、重い荷物を提げてスーパーから帰るのは、結構な重労働だった。
 瞬間、私は両手を握り合わせて、お願いのポーズをとった。
「うん、助かる」
 そうして私たちは、初のお買い物ツアーに出掛けることになる。


 この生活の、どこまでが偽装で、どこからがそうでないか。

 それはもう、きっと、私たちでさえ、見分けることが、――結構に難しい。



35

 ひまわりが咲いていた。
 車から降りた時、マンションと駐車場の間にある小さな花壇で、一本だけ目立って育ってしまったひまわりが、空に大きな花を向けているのが目に付いた。他のひまわりはその下で、大木に寄り添う子供みたいにひっそりと花を咲かせている。規格外の大きさの花だけが、空に届こうかと言うばかりに、目一杯に、その首をしっかりともたげていた。
 それを横目にしながら、車の後部座席から買ってきた荷物を取り出そうとすると、二つあるエコバッグのうちの重いほうを、彼が持ってくれた。それぞれに荷物を手にして、駐車場からマンションへと移動する時に、ふと彼が目を向けたのは、あの花壇の背の高い、ひまわりだった。その横を通りながら、ずっと、見ていた。私もずっと、見ていた。彼とひまわりのある風景を、見ていた。どこかで蝉が、鳴きだした。
 エントランスに入ると、整然と並んでいる数ある郵便ポストの中から、うちの名前の書いてある扉を彼が開ける。そして中から、一通の白い封筒を取り出した。どちら宛の郵便かを確認するために、表を向けたその封筒を、3秒ほど彼は見ていた。それから目を離すと、エレベーターの方へと歩き始める。手にしたままの郵便は、彼宛のもののようだった。
 エレベーターから降りて家の前まで来た時に、鍵を取り出そうとトートバッグをごそごそやっていると、彼は手に持った封筒を口にくわえて、空いたほうの手で私の荷物を取った。「あ、ありがと」と両手に荷物をぶら下げた彼を見ると、くわえられた封筒の、表書きに書かれた黒々とした彼の名前が見えた。
 鍵をあけて中に入り、キッチンに荷物を置く。
 蒸した空気を入れ替えるために窓を開けると、夏にしては涼しい風が入って来た。
 今年の夏は天候不順で、照りつける太陽があまり顔を出さないせいか、いつもより凌ぎやすい。それはそれで有難い事だったが、農作物の値上がりが心配だった。色々と、上手くいかないものだ。
 買ってきたものを冷蔵庫に仕舞おうとそちらへ足を向けると、彼がすでにエコバッグから荷物を出している。
 何だかとても手際がいい。私よりもよほど主婦に向いているんじゃないかと思った。
「私、やるから」
 そう言いながら近付いて行くと、シンクの作業台の上に無造作に置かれた、先程のあの白い封筒が目に留まる。
 その封筒には、慶事用の切手が貼られていた。日の出をバックに、鶴が飛んでいる図柄だった。ひと目で、結婚式の招待状だとわかった。自分の時に使った切手と同じものだった。
 誰か知り合いが結婚するのかと思ったけれど、あまり干渉するのもなんだと思い、すぐに目を離して、冷蔵庫を開けている彼の側に行く。仕舞う場所がわかる物だけを放り込んでいる彼の隣に、私も牛乳パックを両手に持って並んだ。肩が、少しぶつかった。
「彼女、結婚するそうだ」
 私の手から牛乳パックを奪って冷蔵庫のポケットに収納しながら、彼はそう言った。
 空になった両手を間が抜けたように広げて、私は「え?」と聞き返した。
 彼女?
 数秒考えて、それが誰だかようやくわかった。
 私の知っている彼女、と言えば、唯一、彼女しかいない。
 いつぞや、ここに、マーキングをして行った、あの彼女だ。
 私の目の前を、女の香りのする髪で通り抜けていった、あの人。
 あの時未練タラタラに見えた彼女が、結婚することになった、と彼は言った。
 さっきの招待状は、そうすると、その彼女からのものだったらしい。
 昔の彼女からの、結婚式の招待状というものが、どういう感情を湧き起こすものなのか、まるで検討がつかない。
「出るの?結婚式」
 何気なく聞いてみた。考えれば、全く何気ない質問ではなかったかもしれない。けれども、考えるよりも早くそう聞いていた。
「ああ」
 事も無げに、答える。
「同僚としてね」
 答えながら、彼は真中の段の缶詰やなんかを、寄せてスペースを作っている。まとめ買いをしてきたせいで、スペースを空けなければ、買ってきたものが入りきらなかった。
 また冷蔵庫の電子音が開放に対する警告を発し始めたが、まるで聞き入れられず、空しく鳴いている。
 彼の横顔を見ながら、そう言えば、自分たちの結婚式に、彼女は来ていたのだろうか、と思い起こしてみたけれど、思い出せなかった。どうでもいいと思った式だけに、記憶はおぼろだった。
 同僚として、彼も、彼女に招待状を送ったのだろうか。だから彼女も、わざわざ同じ切手で、彼に招待状を送ってきたのだろうか。
 そう思うと、男女の仲の業の深さというものに、何となく薄ら寒くなった。
 果たして真相のほどはわからないが、何だかあの白い封筒には、そんな得体の知れないものが、一杯に同封されていそうな気がする。
 彼はそれを、どう受け止めているのだろう。
 そんなことを考えて、しばらく黙りこんだ。
「気になる?」
「え?」
 動かしていた彼の手が、いつの間にか止まっていた。
「気になる?」
 もう一度、確かめるようにゆっくりと同じ言葉を繰り返した彼の目は、笑みを含んで真っ直ぐに冷蔵庫を見つめていた。
 私も釣られたように、思わず冷蔵庫を見る。
 そこに、何か答えが書いてあるかのように見つめたけれど、言葉は何も出てこない。
 私がここで言うべき言葉は、何だろう、何を、彼は問うているのだろう。
 そんな思いがグルグルと頭をまわる。
 まわって、けれどもそれは空まわりばかりで、結局言葉は見当たらなかった。
 空まわりを続けている私の横で、再び彼の腕が動き始める。
「賞味期限、切れてるから」
 思わず、彼を見た。
「これ」
 ぬっと目の前に差し出された手に、生クリームのパックが握られていた。
「あ、え」
 目を瞬いて、目の前の生クリームのパックを見る。賞味期限の日付は、もう2週間も前のものだった。
 そう言えば、一度使ってから、使い切れずにいたものを、すっかり忘れていた。
「わ」
 変な奇声を上げながら、生クリームを受け取る。
「勿体無い」
 日付を食い入るように見ながら、悔いの声を上げる。
 そして今、妙にドキリとした言葉を、密かに心で思い返していた。

 『賞味期限』
 賞味期限は、切れているから。
 とうの昔に、賞味期限の切れた、恋。
 そう、言ったのだろうか、彼は――?


→36話〜40話へ