ギソウ、ケッコン



36

 テーブルに置かれた水滴のついたグラスの向こうに、彼が眠っているのが見える。
 さも気持ち良さそうに、胸を上下させながら、ソファに横になって眠っている。
 休日の午後、部屋で本を読んでいた私は、咽が渇いてキッチンへとやって来た。冷蔵庫に冷やしてある麦茶をグラスに注ぎ、幾つかの氷を入れて、それを持って部屋へ戻ろうとした時、リビングのソファで横になっている彼が見えた。
 部屋へ帰らずに、そのままリビングに足を向ける。
 机を挟んで彼の横たわる向かい側に腰を下ろすと、テーブルにグラスを置いた。
 冷えて水滴のついたグラスの中で、カランと氷が音を鳴らす。
 その僅かな音で、目覚めるかと思った彼は、しかし目覚めずに、眠り続けていた。
 その胸は静かに上下を繰り返している。ゆったりとした呼吸の音が、静寂の中に紛れていく。
 向かい側に座ったまま、太腿に頬杖をついて、その姿を眺めた。
 二人の間にあるグラスの側面を、雫が伝う。一滴、また一滴と、音も無く伝って行く。それはグラスの裾で、ほんの小さな水溜りを作った。
 その間中、頬杖をついて、彼を見ていた。
 午後の静寂が、なんて似合う人なんだろうと思った。
 何故そんなことを思ったのだろう。
 今まで接してきて、この彼という人が、自分にとっての、何であり、何になって、何になり得るのか。
 静けさの中で、初めて考えた。
 この偽装結婚というものの意味を、改めて思った。
 けれども。
 答えはそう容易に出なかった。
 その間にも、グラスを雫は伝って、水溜りを広げている。
 小さな微生物からしたら、海のようにも見える水溜りも、人間からしたら、取るに足らないただの水滴の集まりだ。今まで取るに足らないと思っていた事柄が、実は海のように大きな問題だったのかも知れない。気付くか気付かないか、そして認識度の違いで、それはどんな姿にも見える。
 まるで無防備な彼の寝姿も、心の角度の差で、如何様にも姿を変える。
 冷えたグラスを手に取った。水溜りが揺れて波立った。
 半分ほどを、コクリと飲んだ。
 またそれをテーブルに戻した時、ベランダで涼やかな金属音がした。
 ふと、彼が目を覚ます。
 ぼうっとした顔を、こちらに向けて私に気付いた。そして目を擦りながら、ゆっくりと体を起こす。
「あれ、いつから居たの?」
「さっきから」
「ふうん」
 眠そうな顔で、目の前にある、グラスを見た。
「これ、飲んでいい?」
 言うより早く、それを手にしていた。
 そして一気に飲み干す。
 何も言う暇も無かった。否とも可とも、言う間さえ与えずに、彼は飲み干した。
 そしてひと心地ついた顔で、ゆっくりと、空のグラスをテーブルに戻す。
 水溜りがまた別の場所に、小さく円を作っている。
 ベランダで、またチリリン、と甲高い音がした。
「あの音を聞いてたら、いつの間にか寝てしまった」
 そう言って彼は、ベランダの物干し竿に吊るされた風鈴を指差した。
「どうしたの、あれ」
「買ってきた。昨日」
「へえ」
 妙に感嘆とした顔で、彼は風鈴を見やる。
「随分風流だな」
 そう呟くと、私を見た。
「でもああいうのは悪くない」
 そして言い直すように、またこう言った。
「あの音は、好きだ」
 笑った。
 安らかに、笑った。
 手を上げて、伸びをして、緩やかに、私を見た。
「何か、用だった?」
「え」
 不意を衝かれたように、間抜けな返事をした。
 そして目の前の空のグラスを見て、
「別に」と返事をする。そう、言うよりほかなかった。
「そう」
 そう言うと、彼はゆっくりとソファに凭れた。
「水が」
 静かに、口を開く。
「水が、辺りを取り巻いている夢を見た」
「水?」
「水の中で、ずっと眠っているようだった」
 彼は、思い出すように目を細める。
「泣きたいような、不思議な、安らいだ気分だった」
 眠っていた時の、彼の安らいだ姿を思い出す。
「それ、お母さんのお腹の中にいた時の記憶じゃないかな」
「え」
「忘れてるだけで、覚えてる人もいるんだって」
 私がそう言うと、彼は驚いたような顔をした。
 確か、何かの本で、そう読んだことがある。
 それが彼のその夢かどうかはわからないが、ふと、そんな気がした。
 彼を満たす安らいだ水。彼の心の根源は、望むもので満たされることによって、バランスを保っている。
 しばらく会ってはいない『彼』の姿が思い起こされた。
 感慨深げな瞳で彼は考え込んでいる。
 そして、目を上げた。
「そうかもしれない」
 それから安らいだ目で、笑った。
 まるで私が荒ぶる海の遭難からでも彼を救ったかのように、笑いかける彼を見て、戸惑った。
 そんなふうに、笑いかける彼に、戸惑っていた。
 自分の気持ちの整理のつかなさに、戸惑っていた。

 水のようにどちらともつかない中性の自分の心の有り様に、何より、戸惑っていた。



37

 陽の照り返しが強い。アスファルトを見ていると、そのギラギラした空気の揺らぎに、眩暈を覚える。
 夏の太陽は強すぎて、その姿を見ることは愚か、目の前に体を曝すことも躊躇われる。
 その炎の舌で、何もかも焼き尽くされるのではないかと思えた。
 強すぎる光が怖くて、影に逃げ込んだ。
 ベランダの庇の影に、逃げ込んだ。
 直視されるのは怖いから。
 少し気分が悪くなって、ベランダにうずくまった。
 大丈夫、少しこうして膝を抱えていれば、そのうちに、良くなるから。
 自分にそう言い聞かせて目を閉じた。
 少しだけ吹いてきた風が、頬を撫でていく。
 けれどもそれは、冷たい風ではなくて、熱を持った風だった。
 熱風に曝されたせいか、体温まで少し上がったような気がする。
 そうしてしばらくしゃがみ込んでいたら、後ろで網戸の開く音がした。
 サンダルを履く音。そして、ゆっくりと近付いて来る。
 その音を、何ともいえない気分の悪さの中、背中で聴いていた。スローモーションのように、ゆっくりと、聴いていた。
 狭いベランダのはずなのに、何故こんなにも長い時間に思えるのだろう?
「どうした?」
 背に、人の体温の温かさ。
 静かに触れたそれは、手の平だった。
 さっきの熱風とは違う、柔らかい熱が、背に感じられた。
「どうした?」
 もう一度、繰り返した。さっきより、柔らかな声だった。耳のすぐ上で聞こえている。覗き込んでいるようだった。
 私はゆっくり顔を上げる。恐る恐る、上を見上げる。
 途端に、強い光が目を刺した。眩みそうなのを堪えながら、ようやく焦点の合い始めた瞳で、こちらを見ている顔を見た。
 静かに、私を窺っている。
「洗濯物を取り入れようとしたら、ちょっと気分が悪くなって」
 やっと治まり始めた気分の中で、そう答えた。先程よりは随分ましになってきていた。
「熱中症じゃないか?」
 案ずるような声がした。
「もう大分楽になったから」
 ゆっくり立ち上がろうとした私に、手を添えようとしてくれた。
「大丈夫、立てるから」
 そう言ったけれど、やっぱり少し手を貸してもらった。
 そのまま強すぎる光から避難するように、ベランダからリビングへと入る。中へ入ると、彼は部屋の窓やドアを閉めて、クーラーをオンにした。そしてソファに座り、少しぐったりしている私に、大丈夫かと聞いた。頷くと、キッチンへ行き、冷蔵庫から水の入ったペットボトルを出して、それをグラスと一緒に持ってきた。
 グラスに水を注いで、私の手に持たせると、飲むようにと言った。
「水分補給をしたほうがいい」
 手の平から伝わるヒヤリとした冷気が気持ち良かった。グラスに口を付けると、それをコクコクと咽の奥に流し込む。そうしているうちに、クーラーが効いてきて、部屋の温度がかなり涼しくなった。
 水を飲み干すと、気持ちもだいぶ落ち着いて、気分の悪さも随分薄らいだ。
 ほっと息を吐いた私に、彼が言った。
「しばらく休んでいたほうがいい」
 そしてまたキッチンへ行くと、今度はタオルを手に戻ってきた。
 濡らしたタオルを絞ってあった。
 それを手渡すと、
「何か他にして欲しいことは?」そう訊ねた。
 私は首を横に振る。
「じゃあ、何かあったら、呼んで。部屋にいるから」
 そう言って、後ろを向きかけた彼に、「ありがとう」と私は小さく礼を告げた。
 微かに振り向いた彼も小さく微笑で返した。
 そしてドアのところまで行って、彼は取っ手に手を掛けた。そのまま、出て行くとばかり思っていた彼は、けれども出ては行かなかった。
 少しじっとして、それから振り返った。
 またこちらに戻って来る彼の姿を、タオルで顔を拭いながらぼうっと見ていた。
 前まで来ると、彼は少し困ったような、言葉の下手な人のような表情を浮かべた。
「やっぱり、やめた」
 そう言うと、少し間を空けて、ソファに座った。
「もう少し、居るから」
 テーブルを見つめて、それだけ小さく言った。
 顔を拭っていた手を止めて、彼を見ていた視線を、私もテーブルへと移す。
「うん」
 私もそれだけ言うと、黙った。
 そして少し困ったように俯いた。
 このどうにも計れない距離の近さに、どうしていいのかわからなかった。
 体温すら感じられる距離を、息遣いすら間近に聞こえる近さを、ただ躊躇いと戸惑いの中に感じていた。
 彼は、彼は――『家族』だから。
 私にとっての、彼への距離は、『家族』だから。
 そんな思いが胸を廻る。
 ただひたすらに、テーブルに視線を落としながら考えた。
 この胸苦しい距離に、手を伸ばせば届くほどの距離に、私が望むものは『家族』なのだ。
 ふと甦る、彼の手の平の熱に、また目を閉じたい衝動が訪れた。
 直視されるのは怖いから。
 だから、どうしていいのかわからなくなる。

 優しさが、ただ、怖かった。



38

 冷蔵庫の鈍く光る銀色の扉に、新しく買ってきたマグネットを貼り付けた。
 それはゾウとライオンとペンギンとシマウマのマグネットだった。
 冷蔵庫の扉が、さながら、小さな動物園のようになった。
 はじめは何の気なしに貼り付けたマグネットを、じっと眺めていたら、ライオンの隣にシマウマがあるのが気になった。何だかシマウマが怯えていそうに見えて、それを剥がして別のマグネットと入れ替える。それから交換したマグネットをよく見ると、それは古株の、ウサギだった。百獣の王の隣に無理矢理連れてこられたウサギは、相変わらずユルイ笑いを浮かべている。けれども、その笑いもどこか薄ら寒く見えて、今にも獲って食われるのではないかと、気が気で仕方がない、といったように見えた。あまりにそれが憐れに見えて、ウサギを剥がすと、今度はゾウの隣に置いた。一見、平和に落ち着いたように見えるものの、ひょっとしたら、大きすぎるゾウに、暢気なウサギが踏み潰されやしないかと、妙なことが気になった。だから、ゾウを剥がして、空いたライオンの隣に移動する。ライオンと言えども、あの大きなゾウはさすがに襲うまい。子象や弱ったゾウでない限り、ライオンはゾウを襲わない、とテレビで見たことがある。ようやくライオンとゾウが片付くと、ペンギンの隣にウサギを持ってきた。愛らしいアイドル的な容貌が二つ並ぶと、何となくその場が和やかになる。癒し系の雰囲気を作り出している、その下をふと見ると、そこにはクマがいた。普段、別に気にも留めないことを気にしだすと、妙な事が気になってくる。クマはウサギを食べるのだろうか、ペンギンは多分食べないと思うけれど、いや、元々生息圏が違うか。白熊がいるのは北極で、ペンギンがいるのは南極だから。でももし、この二つを出会わせたら、もしかすると、クマはペンギンを襲うのかも知れない。ただまだ出会っていないだけで、もし何かの偶然が起こったとしたら。もし、あるはずのない事が、起こり得るとしたら。
 その、『もし』という言葉に孕まれる可能性は、全く計り知れない。
 時にそれは100%に近い『もし』であったり、また時にそれは限りなくゼロに近い『もし』であったり。
 未知の可能性を秘めた『もし』の話を考えて、鈍色に光る扉の前で、私はじっとマグネットを凝視していた。
 時間にしてどれくらいそこに居たのだろう。ようやく、考えた末に、クマのマグネットに手を伸ばそうとした。
「何、してんの?」
 ハッとして、後ろを振り返る。
 不思議そうな表情で、彼が少し離れて立っている。
 仕事をしていたのか、例の黒縁の眼鏡を掛けていた。それを外すと、テーブルの上に、静かに置く。
「冷蔵庫を睨んだままずっと立ってるから」
 また気分でも悪くなったのかと思った、と彼は言った。
 つい先日の、あの出来事を思い出す。スッと背中に僅かな熱が甦った。
「マグネットを」
「マグネット?」
 彼はすぐ側までやって来て、
「ああ、買ってきたのか」と納得した。
「で、なんで、睨んでる?」
 結局、納得していない。
「クマを、どこに持って行こうかと思って」
「クマ?」
 私は始めからのあらましを、ざっと話した。
 あまりに馬鹿馬鹿しくて、笑うかと思っていた彼は、笑わずに、黙って聞いていた。
 そして聞き終わると、後ろから、手を伸ばした。マグネットを全部剥ぎ取ると、それを手の平に乗せて、ひとつ、またひとつと、再び扉に貼り付け始めた。そして、全部一列に、並べた。
 クマ、ライオン、ゾウ、シマウマ、ウサギ、ペンギン、の順だった。
「取りあえず、応急処置」
 そして、言った。
「クマとライオンが、食い合うかどうかは、知らないけど」
 そうなったら、結構凄まじい光景だろう、と思った。
 そして尚もまだマグネットを見ている私に、彼が、「どうかした?」と声を掛けた。
「うん、クマとペンギンは、やっぱり出会わない運命だったんだなって」
 北極と南極は、やっぱり遠かった。両端で、彼らは互いの存在さえ知らない。
 すっ、と後ろから、また手が伸びた。
 手は、マグネットの位置を、少しずつ、ずらした。そして、それはゆっくりと、形を変えていく。
「あ」
 彼が手を引いた時、丸い円が、扉の上に描かれていた。
 両端の繋がった、丸い円。繋がるはずのなかったものが、出会い、今目の前でひとつになっている。クマの斜め右横に、ペンギンが並んでいる。輪になったそれは、不思議と違和感がなかった。
「彼らが本当に出会った時、どうなるかなんて、誰にもわからない」
 後ろからの声が、すぐ間近で聞こえている。
「はじめは互いのことさえ知らない。知ろうとも思わない。存在自体があまりに希薄すぎて」
 いつの間にか、変わった口調は、静かに、訥々と、言葉を口にする。
「けれども、そのうちに、気付く。その存在の意味に、気付き始める」
 ゆっくりと、言葉は続く。
「はじめは何も思わなかった」
 そこで、少し、言葉が途切れた。
 それから躊躇いを振り切ったように、言葉はまた連ねられる。
「その後で、好きになってはいけないなんて言う、契約は無かったから」
 無意識に、私は冷蔵庫に片手を触れた。その手で体を支えるように。
「だから」
 だから――?
「『もし』、本当に、好きになってしまったら」
 冷蔵庫の微かな唸りが、手の平に伝わる。それが全身に伝わるように、足が震えた。
「どうしたら、いいんだろう――?」
 言葉が途切れた後、静けさが訪れた。
 向かい合った冷蔵庫はただぼんやり二人の影を映している。
 『もし』、本当に、好きになってしまったら
 その、『もし』に孕まれる可能性が、おそらくは100%に近いだろうことを、私は知っている。
 ……先ほどから腕に感じている温もりが、彼の手の平の温度によるものだと、気付いてしまったから。



39

 どうしたら、いいんだろう――?

 その言葉が吐かれたきり、言葉は止んで、しん、としている。
 ただ後ろからは、微かな息遣いだけが聞こえてくる。乱れのない規則正しいその息に、今告げられた事柄が、全く何でもないことだったと聞き逃してしまいそうになるほど、それは自然に聞こえた。
 けれども腕に触れられた手の平は、そうではなかった。はっきりと、自己を主張している。はじめは触れているだけだったそれは、次第に意志を持ち、指が腕に少しずつ、力を加えている。それはまるで、返答を促すかのように、徐々に徐々に、食い込んでいく。痛いと言うほどのものではなかったが、体よりも、心にそれは食い込んだ。
 足の震えが止まらない。カタカタと、小さな地震に遭ったように、僅かに震えている。
 それが立っている体を不安定にしていた。
 冷蔵庫に片手を付いたまま、頭の中では今の言葉が繰り返されている。
 どうしたら、いいんだろう――?
 どうしたら。
 どうしたら。
 そんなこと、わかるはずない。
 わかったら、こんなに足が震えたりはしない。
 振り返れずに、冷蔵庫とずっと向かい合っていたりはしない。
 ライオンに咽を噛み付かれたシマウマのように、どうしようもなくじっと立ち尽くしていたりはしない。
 目の前の、輪になったマグネットをただ目に映していた。
 クマとペンギンの並んだ相関図。
 どうしたら、いいんだろう――?
 どうしたら?
 振り返れば、そこに答えがあるのだろうか。
 心で考えるよりも、現実に直面すれば、何より確かな答えがそこに導き出されるのだろうか。
 彼らが本当に出会った時、どうなるかなんて、誰にもわからない
 さっき聞いた言葉が、頭を過ぎった。
 どうなるかなんて、誰にもわからない
 そう、わかるはずなんて、ないんだ。
 私にも彼にも誰にも、わかるはずなんてない。
 心の言葉に動かされるように、そっと首を動かす。
 ゆっくりと、本当にゆっくりと、振り返った。
 ぎこちないほどの動きで、目を彼の方に向ける。思わず、近い距離にあった目が、まず視界に入る。瞬きもせず、真っ直ぐに見ている目はあまりにも静かで、その場の空気には不似合いだった。こんなに硬い空気の中で、余裕さえ感じさせる静けさが、怖くもあった。
「あ、の――」
 咄嗟に、身を引きかけた。さっきまでの、そこに答えがあるかも知れないという希望的な考えは、瞬時に挫けた。
 静けさに呑まれる、そんな恐怖感が広がっていく。
 身を引こうとして、すぐ側に冷蔵庫があることを忘れていた。ぶつかって、跳ね返された。跳ね返されて足が縺れ、転びかけて、目の前の彼が伸ばした手に救われた。
 救助、というのがまさしく当てはまる言葉であるかのように、体は彼の腕に抱きかかえられていた。
 思ったことと、反対の情況を作り出してしまったことに、瞬間息が詰まりそうになった。
 ビクリと体が痙攣する。
 それでも、「ありがとう」と平静を装って体勢を立て直さなければと、懸命に頭で思った。
 彼の肩を掴んでいた手を押して離れようとした。
 その瞬間、キュッと体が締まる。「ありがとう」と言おうとしていた唇は、半開きのまま動かなくなった。
 背中に、そして腰に、強い締め付け感があった。
 それは、もう救助の手などではない。
 しっかりとした、『包容』、そのものだった。
 特殊な感情を表すその『包容』が、体に与えられている。
 そしてそれは、少しずつ、強められた。
 まるで愛しいとでも言うように、その言葉の代わりのように、感情露わに包容する。
 呼吸を忘れていた。
 吸うことも、吐くことも、呼吸をしなければならないことも忘れていた。
 見開いた目で、どこを見ていたのかさえ定かでない。
 何を思っていたのかなんて、もっとわからない。
 ただ、自分の身に起こっていることだけが、わかっていた。
 はっきりと、体に感じる腕は現実だった。
 紛れもない、疑いようのない、否定できない現実だった。
 その現実に、体は竦んで沈黙している。
 ただ、口だけは、自然に動いていた。
「い」
 そう言ってから、ようやく大きく息を吸い込んで、手に力を込めた。
「嫌」
 声を出して、身を捩って、突き飛ばすように体を押した。
 けれども自分より大きな体は、突き飛ばされることはなく、かえって自分の体がまた後ろの冷蔵庫にぶつかった。
 その弾みで、バラバラとマグネットがいくつか床に散らばる。
 再び見た彼の目は、静かなようで、けれどもやはり波立っているように見えた。
 もの問いたげな視線を振り切り、その場にいることも耐えられなくなって、足は逃げ出すことを選んだ。
 ただ、そこにいることが出来なかった。
 何から逃げているのか、彼からか、その事実からか、拒んだ自分からか、わからない。
 部屋に逃げ込むと、扉の前で座り込んだ。
 かじかんだ手を温める人のように、両手で口を覆うと、そのまま動けなくなった。
 足が、またカタカタと震えている。
 どうしたら、いいんだろう――?
 さっきの彼の言葉が胸を廻る。
 どうしたら、いいんだろう――?
 今度は自分の声になって、また、繰り返される。

 ふたりして、路頭に迷っている。

 偽装結婚という、自ら用意した複雑怪奇な迷路の中で、ふたりして、迷っている。



40

「あんたねえ」
 目の前では友人が、呆れた顔を向けている。それを床に座って膝を抱え、黙って眺めた。
 いつもながら、困り者の親友に、文句を言いつつも、見捨てずに付き合ってくれる良き友人だった。
「そんなことで、家飛び出してきて、どうすんのよ?」
 ただそのかわり、言葉には遠慮が無い。
 呆れ顔から、困った子ね、とでも言いたげな表情になりながら、彼女は言葉を続ける。
「高校生じゃないんだからさ」
 返す言葉もなく、膝を抱え、視線を床に落とす。
 口を開けば、だって、とか、でも、とか、どうせそんな言葉しか出てこない。
「黙って出てきたんでしょ?」
 そりゃ、そうだ。あんな情況で、「ちょっと友達の家に避難してくるから」なんて、言う訳がないし、言える筈もない。
 その原因が当の本人である以上。
 どうしても、あそこにいることが出来なかった。
 鞄をつかむと、逃げるように家を出て、ここへやって来た。「今晩泊めて」玄関のドアを開けるなりそう言った私を、友人は口をあんぐり開けたまま暫く眺めていた。他に、行くところが思いつかなかった。実家に戻るなんていうのは以ての外だし、もし戻ろうものなら、直ちに理由を問いただされて、面倒なことになるのは目に見えている。
 こんな時に頼れるのは彼女しかいなかった。
 その彼女は、目の前で軽く溜息を漏らすと、緩く腕を組んだ。
 そして軽く考えるようにしてから、語調を少し和らげて、聞いた。
「それで、どうするの?」
 どうって――。
 彼女らしい、ストレートな質問だった。
 けれども変に気を使われたりするよりは、よっぽど良いと思った。
「……彼のこと、嫌いじゃないんでしょ?」
 私の反応を窺うように、友人は軽く首を傾げてこちらを見ている。
 暫く躊躇ってから、ゆっくりと頷いた。
「でも」
 やっぱりそんな言葉が口をついて出る。
 嫌いな人間と一緒に食卓を囲むなんてことは出来ないだろうし、ましてや一緒に住む、なんてことはもっと出来ないだろう。
 でも、だからといって、それが必ずしも「好き」に繋がるかどうかというと、そんな簡単な問題では無いうえに、「好き」という種類はとても多種多様であるから、どの部類に当てはまるのかと分類するのは、非常に難しい。
 リトマス試験紙のように、はっきりと目に見えて結果がでるものだったら、いい。
 いや、今の自分の状態を、もし試験紙で判定するとしたら。
 それは水のように色に変化の起きない、中性かも知れない。
 そんな思いが胸を過ぎる。
 自分でも判定のつかない気持ちのまま、あそこに居ることは、酸素の少ない場所で生活するくらいに息の詰まることのように思われた。息が詰まりそうになる度に、外に飛び出したくなるかも知れない。今の自分のように。
 そんな状態で、これからも今までと同じような生活を、送っていけるんだろうか。
 そう考えた時、それは酷く難しいことのように思われた。
 ライオンの隣に連れてこられたウサギのマグネットを思い出す。いつ獲って食われるやも知れず、気が気で仕方が無い、薄ら寒い笑い。自分は言うなれば、あのウサギと同じではないか、と何となく思った。
「だって、よくわからない」
 そうポツリと答えると、また膝を抱える。
「考えてみたの?」
 その言葉に顔を上げると、静かな眼差しが見ていた。
「彼のことを、ちゃんと、考えてみた?」
 考えた、と言おうと思ったけれど、何故か口が動かなかった。
 考えたって、何を?、と次は言いそうになった。
 「彼のことを考えた」って、何を考えたことを、考えたと言うのだろう。
 そう思って、目は空ろに床を彷徨った。
 その時、隣の部屋から子供のむずかる声がして、友人がそちらの方へ顔を向ける。
「ちょっと、ごめん」
 そう言うと、彼女は立って部屋を出て行った。
 ほどなくして、その声はやんだが、友人は暫く戻って来なかった。子供の世話というものは、色々と大変なものらしい。
 部屋に一人になって、膝を抱え、ぼんやりと考えていた。
 どうしたら、いいんだろう――?
 またあの言葉が甦る。
 どうしたら。
 彼もまた、思い悩んでいるのだろうかと、ふと思った。
 路頭に迷った子供のように、どうすればいいのか思い悩んでいるのだろうか。
 そう思った時、『彼』のことが心に思い浮かんだ。
 初めて会った時の、あの虚ろな瞳を思い出す。
 その瞬間に、胸のどこかがキリキリと痛んだ。
 キリキリと、軋んだ音を響かせながら、それは続いた。
 続いて、痛みが止んだ頃、今度は奇妙な感情がそこに生まれていた。
 奇妙な、形容し難い、あえて言うならば、それは「切なさ」とでも言うような、久しく出会ったことのない感情だった。
 その時、ドアが開いて、友人が戻って来る。
「ごめん」
 戻って来ると、彼女はひとことそう言った。
 てっきり、時間が掛かってごめん、とか言う意味かと思ったら、そうではなかった。
「やっぱり今晩、泊められない」
「え」
「ほら、うち、狭いじゃない。ダンナと子供と私で精一杯なのよ」
 まあ確かに、広い家とは言えないけれど。
 まだ帰宅していないダンナさんが熊のように大柄な人だったとは、確か記憶していない。
「あのさ」
 彼女は少し神妙な顔付きで、また目の前に座る。
「あんた、このままじゃずっと、誰も受け入れられないと思う」
 神妙な表情のまま、続けた。
「だから、電話したわ、彼に」
 は?
「迎えに来てって」
 え。
「ちゃんと、考えて、答えを出しなさい。大人なんだから」
 自分よりも幾つも年上のような親友の表情を見ながら、驚きのあまり、言葉が出なかった。
 ただ、ポカンと口を開けて見ていた。
「少なくとも、あんたよりは彼は大人だわ」
 そして友人は、また軽く腕を組んだ。
「すぐ伺いますって」
 そう言って、柔和な笑みを浮かべた。
「いい人だと思うけど?」
 ちゃんと考えなさいよ、とまた口にした。
 その笑みを見ながら、呆然とした頭で、ただひとつだけわかったこと。

 それは、ライオンの隣りから逃げ出したウサギが、また元の場所に戻されることになった、とそれだけは、何より明確に、否が応でも、認識することとなった。


(Stage4 : 終わり)

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