ギソウ、ケッコン (Stage5)



41

 車の中では互いに何も言葉を交わさなかった。
 迎えに来た彼は、友人に挨拶をすると、黙って私を車に乗せた。私も何も話さなかった。
 車が街の中を走っている間中、私は街の灯を見ていた。彼はハンドルを握って前を見ていた。
 視線が交わることはなかった。

 車がマンションの駐車場に着き、彼がエンジンを止めて、車から降りる。少し遅れて私が降りると、彼は外で待っていた。
 それからふたりして、マンションのエントランスを通って、エレベーターに乗る。部屋のある階に着くと、またふたりして、黙々と通路を歩く。そしてドアの前まで来た時、彼が鍵を取り出して開けた。買い物に出掛けた時は私が鍵を開けたけれど、今日は彼が先に立っていた。
 ドアを開けると、その取っ手を持ったまま、彼は中へ入らずに、脇に除けて先に私を促した。
 やはり何も言わず、ただ黙って促した。
 数時間前に逃げるようにして去った家が、また目の前にある。
 中の電気は点いたままで、几帳面な彼にしては珍しい、と思った。すぐに伺いますと言った言葉通り、全てそのままにして出て来たのだろう。
 その明かりが迎える家の中へと足を踏み入れる。
 自分の家へ帰ってきたのだという感傷が、不意に起こった。数ヶ月も住んでいれば、そこは自分の家だと体が覚えるものらしい。臭いも空気も色も、既に体に馴染んでいる。まるで違和感がなかった。
 たった数時間前のことなのに、奇妙な懐かしささえ感じられる。
 日常仕事から戻った時には覚えたことのない感情だった。
 後ろで彼がドアを閉じる。
 ひとりで住んでいる家ではなくて、彼とふたりで住んでいる。
 その音に、改めてそう思った。
 その音さえも、いつしか体に馴染んでいる。
 臭いや空気や色と同じくらいの当たり前さで彼はそこに居る。
 逃げ出して帰って来て、皮肉にも改めてそう感じた。
 ちゃんと、考えなさいよ。
 友人の声が耳の奥でして、わかってるよと言葉にはせず返事をする。
 考えなければ、ここにはいられない。
 このままこの生活を、ずっと続けていくのか、変わり始めた私たちを、どうしていけばいいのか。いや。本当は、何もかもが、はじめから変化し続けていたのかも知れない。最初のあの時から、何もかもが始まっていたのかも知れない。確かなものなんてこの関係には何もない。ただ漠然と続ける共同生活に、明確なものなどはじめからありはしない。積み上げられていく日々の中で、それらは次第に形作られて行き、その過程が今の私たちであり、それもまだ化学変化の途中に過ぎない。その変化を、受け止めきれずに私は逃げ出した。臆病になるくらいなら、もっとはじめの段階で、変化を放棄していれば良かったのだ。止める術はいくらでもあった筈だった。
 自分の部屋に入って暫くベッドに座って考えていたら、いつの間にか足がキッチンに向いていた。
 キッチンに入って電気を点けると、真っ直ぐ銀色に鈍く光る冷蔵庫に近付いて、その前に立った。
 扉には、マグネットが、一列に並べてあった。
 クマ、ライオン、ゾウ、シマウマ、ウサギ、ペンギン、の順だった。
 床に落ちた筈のものが、また綺麗に整然と並べられてあった。
 暫くずっとそれを見ていた。
 気配に気付いて戸口の方を見たのは、随分経ってからだった。
 戸口の枠に手を掛けて、黙って立っていた。
 いつもそこで無言で立っている。そこがまるで彼の定位置のようだった。
 ここから逃げ出してから、初めて視線が合わさった。
 少し首を傾げ気味に、特に大した用事でもなくフラリと現れた、というふうに、さりげない態度で立っている。向けられた視線はそれくらい静かだった。問いただしたり問い詰めたり、また思い詰めたりはしていない、平穏に見える視線。ただそれは、何かを待っているように、自分から逸らしたりはしなかった。
 やがて私から逸らした視線を、また冷蔵庫の上に戻す。
 そして手を伸ばしてマグネットをひとつ剥がすと、それを少し下に貼り付ける。もうひとつ剥がすと、その隣に置いた。それはライオンとウサギのマグネットだった。他の動物たちとは少し離れた場所に、ふたつ並べて置いた。
「少し、考えたいから」
 並べ終わると、言った。
「考えたい、から」
 繰り返して、そこからの言葉が繋がらなかった。時間が欲しいとかしばらくこのままの生活でとか、何か言うべきことがある筈なのに、何を言えばいいのかわからなかった。
 わからないまま、ただライオンとウサギをじっと見つめていた。
「わかった」
 ややあって、声がした。
 酷く穏やかな声だった。水面に波ひとつ立てない、気付かないほどの微風のような、それでいて、乾いているわけでもない、適度な湿気を持った、清涼な声だった。微塵も不安を掻き立てる要素を含まない、その声がしたあと、保たれた距離が縮まる気配もないまま、いつの間にか、気付くとその姿は戸口から消えていた。
 微風のようだった。
 目の前の冷蔵庫と向かい合いながら、またこの位置へ戻ってきたのだ、と思った。
 昔遊んだスゴロクの、「×マス戻る」が出て、またスタート地点に戻されたような気分だった。
 振り出しに戻る。
 けれども、前と同じではない。
 同じではない何かが、始まっている。
 その始まっているものに、今度は目を逸らすことの出来ない明確さを感じながら、いつまでも、マグネットのライオンとウサギを、ただじっと見つめていた。



42

 数秒躊躇ったあとに、ドアをノックする。
「ご飯、出来たけど」
 昨日の今日ではやはり顔を合わせづらいものがある。
 けれども一緒に住んでいる以上、そして一緒に夕飯を食べると決めた以上、それはどうしても避けられないことだった。
 このままここで共同生活を続けていくからには、彼と関わらずにいることは出来ない。
 狭い空間で、顔を合わせずに暮らして行くのは不可能なことだ。一方が寝ている間に一方が起きているというような、昼夜反対の生活でもない限り(そう、まるで「彼」と『彼』のように)、それは不可避なことだった。
 たかが食事が出来たと知らせに来ることが、こんなに躊躇われたことはない。
 それでもいつまでも躊躇っているわけにもいかず、仕方なしにドアの前に立っている。
 ノックをして、言葉を掛けて、返事を待った。
 いつもなら、すぐに答えるはずの声が、何故か今日は聞こえない。
 もう一度、ノックと共に声を掛ける。
 やはり、返事がない。
 確か外出はしていない筈だと思いながら、不審に思って、ドアの取っ手に手を掛ける。そこでまた一瞬躊躇ってから、静かにドアを開けた。
 ゆっくりと開いたドアの向こう、明々とした灯りの下で、ベッドに横たわっている姿が見える。
「ねえ、ご飯――」
 ドアのところでまた呼んでみたけれど、反応がない。
 動く気配もないので、仕方なく、部屋に足を踏み入れる。
 いつもながら整然と整頓された部屋の、窓際に面した位置にある、ベッドにそっと歩み寄る。
 深い寝息がして、それに合わせ、胸がゆっくりと上下しているのが見える。その胸の上に置かれた右手には、数枚の書類のようなものが握られていた。閉じられた瞼は貼りつけられたように、ピクリとも動かない。
 いつもの黒縁の眼鏡をしたままで寝入っているその姿は、横になって書類を見ているうちに、深く寝入ってしまったことを物語っていた。
 少し思案して、「あの――」と声に出してみる。
 様子を窺ったが、まるで起きる気配はない。
 思い切って、手を伸ばして、肩を揺さぶってみる。
「ご飯、出来たけど」
 先程よりも声を大きくして告知する。
 目がパチリ、と音を立てるように開いた。
 思わず、手を肩から外して引っ込める。
 暫く瞬きしたあとで、目はこちらに気付いたようだった。
 途端に、ムクリと起き上がる。
 その瞬間に、私の体は大きく一歩退いた。
 起き上がったまま、彼は黙って私を見ている。その目は、まだ夢から覚めやらぬ、何やら異世界を旅してきた人のようだった。
 その時パラリと書類がベッドから落ちて、その音でようやく、彼の目は現実世界に引き戻される。
「あの、ご飯――」
 退いた体勢のままで、何度も馬鹿みたいに口にした言葉をまた繰り返す。
「ああ――」
 まるで久し振りに言葉を口にした人のように、彼はぎこちなく唇を動かす。
「ごめん」
 そう言うと、眼鏡を外して、目をゴシゴシと擦った。まだかなり眠そうだった。
 その仕草を見ながら、そっと背を向ける。
 戸口に向かって歩き出そうとした時に、ぽつりと声がした。
「昨日は――」
 ふと、足を止める。
「ごめん」
 短い言葉に、戸口の方を見たまま、暫く考える。
「うん――」
 ようやくそれだけ答えると、また後ろから静かに声がした。
「――でも、嘘じゃない」
 聞き終わると、その言葉には答えずに、部屋を出た。
 ただキッチンへと向かう足取りは、プログラムされたロボットのように、考え込む私の体を乗せて、自動的に動いていた。

 いつもの食卓と何ひとつ、変わらないように見えるのは光景だけで、そこにある空気はまるで違っている。
 ――筈だった。
 のに、そう感じるのは私の方だけだと言わんばかりに、食卓の向こうの相手は、平然と食事を平らげている。
 気まずい空気など、どこにも有りはしないのだと諭されているような食べっぷりだった。
 いつもと変わらない平穏さに、こちらのほうが妙に落ち着かない。
 常に会話があるわけではなかったが、今日の会話の無さは、それこそいつもとは違う筈なのに、前の相手は気にする様子もなく、黙々と食べている。
 どこを見ていいのか迷い、それでも時々その様子を目の端で窺いながら、こちらも黙々と箸を動かす。何となく、食べるのがゆっくりになる。
 ふと、彼が視線を止めた気配がして、思わずこちらまで一緒に動きを止めて、彼を見る。
「指、どうかした?」
 何気ない口調だった。
 彼は私の左手の中指に貼られた絆創膏を見ていた。
 さっき食事の支度をしている間に、うっかり包丁でザクッとやったのだ。つい考え事に気を取られるあまり、手元に注意していなかった。その考え事と言うのは、当然今目の前にある、食卓を挟んで起こっている現状の原因についてだった。
「ちょっと包丁で――」
 そう説明すると、彼は食べ終わった茶碗と箸を食卓に置いた。
「血が滲んでる」
「あ、でも大したことないから」
「これ、今日は全部洗うから」
「え」
「黴菌が入るといけないし。後でちゃんと手当てもしないと」
「いや、でも――」
「食べ終わるまで、待ってるから」
「あの――」
 目の前で悠然と構えている相手に完全に呑まれている。
 その態度にタジタジと、辟易ささえ感じながら、考える。
 彼が、変だ。
 こんなペースはたまらない。
 完全に調子が狂っている。
 どうしていいのかわからない。
 狂っている調子に戸惑いを感じながら、また思う。
 どうしたら、いいんだろう――?
 何度も同じ問いに行き当たる。
 彼も私も、変だ。
 ずっとこの非常識な生活に、変になり続けている。
 どうしたら、いいんだろう。

 何度も繰り返されるその問いに、答えはまだ、どこにもみつからない。



43

 明日美術館へ行こう、と突然彼がそう言った。
 招待券を貰ったのだ、と。
 箸を動かしていた私は、動きを止めて彼を見た。箸と茶碗を持ったまま、口にご飯を頬張ったまま、全ての動きを止めて馬鹿みたいに呆けた顔で見ていただろう。
 そのくらい彼の言葉は唐突だった。
「それとも明日の休みは何か用事があった?」
 普通、言い出す順序が逆だろう。それとも、私に休日の予定などあるはずがないとでも思っているのか。そして、なければ一緒に出掛けるのが当然とでも思っているのだろうか。
 いずれにしても、何とも図々しい態度で、そして思い込みだろう。
「何か用事、ある?」
「――いや」
 駄目だ、咄嗟に何も用事が思いつかない。何て馬鹿正直に返事をしてしまったのだろうと、心中で悔やんだ。
「××美術館で、今××展をやっているだろう」
 そんな記事を新聞でチラリと目にしたことはあったが、特に興味もないのでよく覚えていない。海外の美術館から、数年振りに、××という画家の絵が、海を渡ってやってくる、と確かそんなことが書いてあったと思う。××という画家が、どこの国のいつの時代の画家かもよく知らない。ただ、昔美術の教科書かなんかで、その画家の絵を見たような気がする、というくらいの認識しかなかった。
「仕事で付き合いのある人が、偶々その××展に関わってて」
 その人から貰ったのだ、と彼は言った。
 へえ、そんな人とも仕事で関わり合いがあるんだな、と思った。彼の仕事は色々な人との繋がりがあるらしい。私の世界とは全く異なる世界だった。
「奥さんと来て下さいって」
 箸を動かしながら、ごく普通に食べ物を口に運びながら、何でもない言葉のように、彼は口にする。
 奥さん、という言葉を、彼が今まで口にしたことは、多分、一度もない。
「――出来れば、昼からにしてもらえれば」
 仕方なく、勝手に進みつつある予定に、それだけ渋々注文をつける。こちらの意向はお構い無しで、どんどん話は進んで行っている。
「ああ、朝は家事で忙しいだろう。合わせるよ」
 にこやかにそう答える彼を見ながら、また妙なペースになりつつある空気をまぜかえす為に、何か言葉を探した。
「絵が好きとか?」
「ああ、特に××は、昔から好きだった」
「へえ、崇高な趣味だな」
 そう言うと、彼は笑った。
 『そんなのは料理を好きになるのと大差ない』――そう答えた。
「特に、このカレイの煮付けなんて、俺からしたら物凄く崇高だけど」
 皿の中の魚を指差した。そして箸で身を摘むと、口に入れる。
「やっぱり、崇高に旨い」
 真面目なのか冗談なのか、満足気に口を動かす彼を見ていると、少し可笑しくなった。
 自分の分にも箸をつけて身を骨から外すと口に運ぶ。決して崇高な味はしなかったけれど、身に程よく滲みた、煮汁の味が口に広がって、フワリとした身の感触が舌に優しかった。

 結構な時間をかけて、考え込んでいる。
 クローゼットを開けて、目の前に並ぶ衣服の列を見ながら、考え込んでいる。
 明日、何を着て行こう?
 大体、美術館なんぞという、格調高い(と思っている)場所にはあまり足を運んだことがない。
 何だかよくわからない流れで、よくわからないうちに、行くことになってしまった。
 しかも、それに彼の仕事が少なからず関わっているとあらば、致し方ない。
 考えれば、これまで彼と出掛けたことと言えば、償いの食事会だとか義実家とか買い物とか、そんなことくらいだった。気軽な格好で出掛けられるところばかりだったので、服に悩んだことなんてない。
 一応建前上は、彼の妻であるから、あまり変な格好もできない。
 そう思うと、益々悩んでくる。
 もっと早くに言っておいてくれたら、せめて前以て用意したのに。(大体、何で、前日の夜なんだ?)
 最近、あまり服も買ってないしなあ、あれ、私去年の今頃、何着てたっけ。
 そんなことを思いながら、またずっと、クローゼットと睨みあっている。

 服が決まらないままに、刻々と、ただ夜ばかりが、更けていく。
 明日、一体何を、着て行こう、私――?



44

 絵というものをあまり真剣に見た事がない。
 ただ何となく目に映しているだけで、その絵についての深い考察などというものは、考えたことがない。
 描いた人間の生き様だとか時代背景だとか思想だとか宗教的観念だとか、よくテレビで解説している人がいるけれど、そこまで考えて絵なんて見ていたら、頭が痛くなってきそうだと思う。
「この画家の絵は――」
 隣りで解説が始まったとき、そんな理由で少々げんなりした思いに駆られながら、それでも黙って立っていた。
 絵の前に、彼と並んで立っている。
 美術館の中は思ったより人出が多く、どうやら私が知らないだけで、結構人気の画家らしい。カップルや親子連れ、友人同士と様々な組み合わせの様々な年代の人が、絵に見入ったり会話を交わしたりしながら、壁に沿って列を作っている。
 その中に、私と彼も並んで立っていた。それはまるで、美術館の照明を落とした薄暗い中を行く、蟻の行列のようだった。
「この画家の絵は、青い色が特徴なんだ」
 解説の先を聞いてみると、予想していたものと少し違っていた。もっと画家に関する薀蓄だとかが披露されるのかと思っていた。
「ほら、この青」
 彼は絵の中の、青い部分を指し示す。
 それは透き通ったような、不思議な清々しい色をしていた。
 秋の空の、抜けるようなあの青さに似ている、そう思った。
「この色が好きなんだ」
「色?」
「当時の顔料で、この青い色の原料はとても高価だった。けれどもこの画家は、この青い色をとても愛した。だから、彼の作品には、ほとんどこの色が使われている。高価な顔料を度々使うことは、そう容易いことではなかっただろう。彼は決してそう裕福な暮らしはしていなかったからね。でも彼は無理をしてでもこの青を使うことで、絵に彼の息吹を吹き込んだ。そうでなくては、きっと絵の意味が無かったんだろう」
「へえ」
 思わず、その青い色に見入った。
「この青が、彼自身の全ての象徴だったんじゃないだろうか」
 ふと吐かれた言葉に、隣に目を移す。
 遠くを見つめるような儚げな眼差しで、彼は清々しい青い色を見ていた。
 その青い色に、染まってしまいたい、とでも訴えているかのような眼差しだった。
 不思議に、その時その青い色が、とても彼によく似合っている、と思った。彼の人としての何かが、その色に共鳴しているかのような、同調しているかのような、そんな不思議な感覚。
 もしも、色で人間を表すとしたら、きっと彼はこんな色なのではないか、と思った。
 この絵を描いた画家も、もしかしたら、そうだったのかもしれない。
 どんなに高価でも、譲れない、自分の中の色。
 その色を、彼は絵の中に塗りこまずにはいられなかった。
「絵じゃなくて、色が好きなんだ?」
 そう言うと、彼は私を見た。
「まあ、そうともいえるけど――」
「なんだ」
「なんだ?」
「てっきり、小難しい絵の説明をされるのかと思った」
 その言葉に、彼は笑った。
 まあ絵も勿論好きだけど、どちらかというと、絵の解釈には実はあまり興味がない、そう言った。
 ただ、その青い色に、魅せられたのだ、と。
 理屈よりも、色で感じ取る。
 絵と言うものは、それでも別にいいのではないか、とその時思った。
 そう思って見てみると、頭の痛くなりそうな、難しい解釈はどこかに放っておいて、ただ楽しんで絵を見ることが出来そうだった。色だけでなく、形や光や影、絵というものは、何気なく見ているほうが、そういったものをより受け入れられるような気がした。
 心を解放する、そうすることが、無理なく物事を受け入れるひとつの方法なのかもしれない。
 ふと、後ろに並んでいた人々の列に押されて、少しよろめいた。いつの間にか、絵の周りには結構な人垣が出来ていた。
 スイと手を出して、彼が私の肩を抱くように人垣から守った。
 軽く手を触れるだけの行為は、そこに何らかの気遣いがあるようだった。
 そんなことに気付いたのは、自分が今心を解放しているせいかもしれない、そんなことを、ふと思った。

 薄暗い美術館から出ると、外には秋晴れの清々しい空が広がっていた。
 まるでさっき見た、あの画家が描いた青い色のような、透き通った、美しい、抜けるような空の色だった。
 思わずそれに見惚れて足を止め、ふと気付くと、同じように隣りで空を見上げている。きっと今、心にあるのは互いに同じ情景に違いない。
 また絵を前にするように、ふたりして空を見る。
 しばらくそうしてから、美術館の建物から続く階段をゆっくりと降り始めた。駐車場は、階段を降りて少し行ったところにある。
 その途中、不意に彼が振り返った。
「その服」
 え?、と私は足を止める。
「いいね、今日の雰囲気にとても合ってた」
 それだけ言うと、彼はまた前を向いて階段を降り始める。
 突然何を言うのかと思った。思わず、変に気恥ずかしくなる。
 昨晩散々悩んだ挙句、結局、とてもシックでシンプルな服を選び、ブーツと合わせることにした。誰に会ってもいいように、一番無難な格好を選んだつもりだったが、結局彼の知り合いには誰も会わず、その代わりに思わぬところで評価されて、その思い掛けなさに、何やら妙にドキマギしている。
 何だろう、別に服を褒められたくらいで。
 何なのだろう、こういう感じは。
 空を見上げて、また瞳を青く染める。
 清々しい、本当に秋らしい空に、心が潤って、そのうちに、ドギマギとしたものが、次第に沈静化して行く。
 どこか気持ちの一端が、あの絵の一部のように、青く染まっていくようだった。
 再び視線を下ろすと、階段の下で彼が待っている。
 黙ってこちらを見上げている。
 その姿を見ながら、また階段を降り始めた。
 降りながら、降りきったら言ってみようか、と、ふと思った。
 今日の夕ご飯は、外で食べて帰らないか、と。
 そんな気になったのは、ただ楽しんで絵を見るように、何気なく過ごしてみることが、事に向かい合おうとするよりも、無理なく何かを受け入れられるのかもしれない、そう思えたからで、それは、今までの自分よりも、少し力が抜けたような、和らいだような――そんな清々しい空を思わせる心持ちだった。



45

 真夜中、微かな物音に目が覚めた。
 それは部屋の外、廊下のほうから聞こえた音だった。
 耳を澄ますと、床の軋む音が小さく微かに廊下を遠ざかって行く。そして部屋のドアが開けられる僅かな音と共に、その足音は消えた。
 すぐにわかった。それはリビングのほうだった。リビングには絨毯が敷いてあり、足音は吸い込まれるように聞こえなくなる。
 それとわかった途端、無意識にベッドに起き上がった。
 懐かしい咽かえるような思いに駆られて我知らず、掛け布団をめくってベッドから足を降ろす。
 夢遊病者のようにふらりと立ち上がって歩き出すと、ドアを開けて廊下へ出る。暗くて寒い真夜中の空気がパジャマを通して肌に触れる。その空気に、闇でさえ、優しく愛おしい、甘やかな蜜のように思えたかつての日々を思い出して、胸の高鳴りを覚えた。
 足の裏に冷たい床の温度を感じながら廊下の向こうに目を凝らす。じっと目を凝らしていると、果たして切望した光景が、その滲んだ闇の向こうにあった。
 まるで誰かを待っているかのように、いつものように半分だけ閉じられたドアの薄い輪郭が、ぼんやりと暗闇に浮かび上がる。そのドアの向こうには、甘い蜜の味の闇が更に広がっているはずだった。
 その光景を目にした途端、足はすでに動き始めていた。ヒヤリとした床の冷気と相反するように、胸はどうしようもなく高鳴り続けている。
 ドアの取っ手に触れて、残りの半分の闇を迎えるように、それを開いた。途端に、リビングの中にあった空気が廊下に流れ込む。それは廊下よりも幾分暖かくて、僅かに湿った臭いのする空気だった。
 今日は月が出ている。リビングの中は、その月の光のせいで仄かに白い。白く輪郭が浮き出ている。はっきりとそれとわかる輪郭を見つめたまま、しばらく迷った。もしかしたら、また間違いではないか、とふと思った。いつかのように、また間違えて抱き締めてしまったら、――今度こそ取り返しがつかないような気がした。
 しばらくドアのところで躊躇っていた。中の薄墨の闇は、現実の闇なのか、それとも一夜の夢の甘い蜜なのか。
 判別がつけられないまま、そこに立ち尽くしていた。
 ――おねえちゃん
 闇に溶け入るような声がそう呼んだ時、もう何も迷わずその中へ踏み込んでいた。一歩一歩が次第に早くなる。早くなって、あっという間にそこへ辿り着いた。自分でもわけがわからないほどの気持ちの昂ぶりに、どうしようもなく両手を広げて抱き締めた。止められなかった。そこからこみ上げてくる感情が、何故だか切ないような、悲しいような、苦しいような、それらが混ざってぐちゃぐちゃになったような、説明の付かない変な感情だった。ただひとつだけ確かなことは、堪らなく、今泣きたい、という強い感情だった。抱き締めたまま、流れてくる涙を拭きもせずに、ただだらだらと泣き続けた。
 ――どうしたの?
 背に暖かい手の平の感触が触れた。
「どうもしない」
 やっと体を離して涙を拭くと、改めて顔を見た。
 ああ、『彼』だ、と思った。
 体は彼なのに、それが『彼』だと認識できる。
 少し首を傾げて笑っているのは、紛れもない、『彼』だった。
 ――なんで泣くの?
「わからない」
 本当に、わからなかった。何でこんなに泣きたくなったのだろう。
 少し考えてから、また言った。
「多分、嬉しかったから」
 そう、きっと、とても嬉しかったから。そしてとても切なくて、悲しくて、苦しかったから。
 ――そう
 そう言うと、『彼』は手を伸ばして、頬に残った涙を指で拭った。
 何かが、違う、と思った。
 『彼』の、何かが、ひとつひとつの何かが、今までと違っている。
 それが何であるかは、うまく説明出来ないけれど。
 ――久し振りに会えて、僕も嬉しいよ
 そう言うと、『彼』は、私の右手を取った。
 ――僕、今日で15才になったんだよ
 笑顔でそう告げた『彼』を、しばらく呆然と見つめた。
「15才?」
 ――うん、今日が誕生日なんだ
 15才?
 心でもう一度、反芻する。
 眠っている間に、『彼』は成長したというのだろうか。
 先程、今までの『彼』と、何かが違う、そう感じたのは、随分と雰囲気が大人びたせいだったのだろうかと思った。そう言えば、笑い方もどことなく、大人びている。
「大きくなったの?」
 そう聞くと、『彼』は微笑した。
 ――そうみたい
 そして少し悪戯っぽく、また笑った。
 だから、また一緒に寝たいなんて、もう言わないから――そう言うと、今度は清々しい大人びた笑顔で、笑った。

 少し話をしてから、『彼』がまた眠った後、ようやく気が付いた。
 そう言えば、今日は彼の誕生日だったと、何気なく覚えていた日付けを思い出した。
 『彼』が15才になっていたのに驚いたけれど、現実の彼も、またひとつ、歳をとるのだ。
 『彼』を見ながら彼のことを考えた。
 『彼』と会わない間に、彼とはいろいろあって、それが、『彼』に会えたことで、感情がごちゃごちゃとして多分泣いてしまったのだ。迷子になった子供が、やっと母親に会えた時に大泣きする感情に似ている。
 本当に、いろいろとあったから。
 そう考えた時、ふと、思ったことがある。
 さっき、思わず自分の感情のままに、自分は『彼』を抱き締めたではないか、と。
 止められない感情のままに、抱擁したではないか、と。
 それは、『あの時』の、彼、と同じではないか、と。
 突き飛ばされて拒絶された痛みは、どんなにか――痛かったろう、と。

 眠っている彼の顔を見ながら、そう、考えていた。


 朝食を摂ってコーヒーを飲み終わった頃に、彼はいつも起きてくる。
 そして私が多めにつくったコーヒーの残りをゆっくりと飲んでから、仕事に行くようだった。
 基本的に、普段はあまり朝食を摂らない。そのほうが、体にいいのだとか何だとか、いつか言っていた。
 今日は少し遅いなと思っていたら、食器を洗い終わった頃に起きてきた。
 シンクのところで擦れ違って、彼はいつものように、コーヒーを入れようと棚からカップを取っている。
 その後姿を見ながら、声を掛けた。
「誕生日、おめでとう」
 一瞬、動きが止まってから、振り向いた。びっくりしたような顔をしていた。
「え」
 そう言ってから、すぐに「あ」と言った。
「忘れてた」
「え?」
「いや、忘れてた――」
 本気で忘れていた、という顔をしていた。普通、自分の誕生日を忘れるものだろうか?
「でも、何で?」
「え」
「何で、覚えてたの?」
 そう言われて、返事に困った。本人から聞いた、とはちょっと言い辛い。
「何となく」
「へえ」
 一番間の抜けた誤魔化し方だと思いつつ、そう言うより仕方ない。
「でも、ありがとう」
 本当に嬉しそうに、そう言った。それは、夕べに見た、『彼』の笑顔と同じだった。
 途端に、あの切ないような、咽かえる感情を思い出す。心のどこかがキュッという音を鳴らした。
「今日のご飯、どこかに食べに行かない?」
 お祝いのつもりだった。自分に出来ることと言ったら、せめてそれくらいだと思った。
 けれども少し考えてから、彼はこう答えた。
「だったら、ここで食べたい」
 ダイニングテーブルを指差した。
「何か作ってくれると、嬉しい」
 そして、緩やかに、笑った。
「――君が、作ってくれると、嬉しい」
 清々しい、あの大人びた、笑顔だった。

 今日の帰りには、シャンパンを買って行こう。
 それから、トマト味のロールキャベツ。
 トマトピューレも買わないと。
 流れ去る窓の外の景色に目をやりながら、電車の揺れに身を任せる私の頭の中は、そんなことで一杯だった。


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