ギソウ、ケッコン



46

 少しだけ髪を切った。
 基本的に髪型は変えない。少し伸びると切りに行く、を繰り返しているので、いつも髪を切ったことを周囲に悟られなかった。大きく何かを変えることは好きじゃない。突然変化を起こしても、自分がそれについていくことが出来ないで、同じ場所に立ち止まって違和感ばかりを覚えている。そういうのは結局自分を疲労させるだけで、結果何も変わらない。
 ずっとそう思っていた。
 だから、この結婚を決めた時、自分としては本当に意外すぎる選択で、今にして思えば、どうしてこんな選択肢を選んだのかと不思議にすら思う。
 本当は、何かを変えたくて、けれどもどこか臆病で、それを億劫だと思い込むことで、片付けてしまっていたのかもしれない。
 何かを変えることは、本当は怖くて仕方がない。
 自分がどうなるのか、考えることもできなくて、考えることを否定し続けた。
 髪を少しずつ切ることで、変化を避けている。
 そんな自分の臆病さを、まざまざと思い知るような今の日常に、また少し髪を切って考えている。
 考えることを拒んでいるはずだったのに、気が付くといつも考えている。
 自分を変える怖さと、それからの自分について、考えている。
 今までひとりだった時には、何も感じなかった。彼と生活するまでは、自分の世界には無かった言葉の解釈を求めるように、いつも考えている。
 それは誰かのことをずっと考えているのと同じだった。
 玄関の鍵を開ける音がする。続いて、扉の開く音。そして廊下を歩く足音がして、それはリビングへと入っていったようだった。
 今日彼は、例の同僚で(元)彼女だった人の結婚披露宴に出席して、そのまま二次会にも参加したはずだった。時計を見ると、時刻は午後11時を過ぎている。
 少し迷ってから、暫く経った後に、部屋を出てリビングの方へと向かう。
 けれどもキッチンのドアから入ると、何気なく冷蔵庫の前まで行き、扉を開ける。そしてただ中を見ただけですぐ扉を閉め、そっとリビングへ目を向けると、明かりの下、ソファに座り込んでいる彼の姿が見えた。
 本当に、座り込んでいる、という表現が相応しいほど、ソファに深く体を預け、背凭れに頭を乗せて座っている。側には外されたシルバーグレイのネクタイが、無造作に波打って打ち捨てられていた。ダークカラーのスーツを着たままで、少し疲労した表情の彼は目を瞑っているようだった。足元には引き出物の入った某有名ホテルのブライダルバッグが置かれている。
 その姿を暫く見てから、近付いた。絨毯は足音を消していたけれど、その気配を感じてか、彼は目を開いた。
 ゆっくりとこちらに向けられた目は、少し充血していた。
 疲れのせいかと思ったけれど、酔っているのだとすぐにわかった。目付きがどことなく、普通とは違う。けれどもいつかのように、泥酔しているわけではないようだった。
 側に立っている私を、赤味を帯びた目でじっと見上げている。
 そうしてから、おもむろに口を開いた。
「髪、切ったの?」
「え」
 思い掛けない言葉だった。
 ほんの少しの変化だったのに、それだけの変化に気付かれたことが、全てを見透かされたような気がした。
「うん」
 少し口篭りがちに返事をすると、「そう」と言って彼はまだこちらを見ている。
 その目に、自分の変化がどう映っているのだろうと思うと、妙に直視できなくなって、少し視線を逸らして、彼のスーツだとか足元だとかを見ていた。そうしてからまた視線を戻すと、まだこちらを見ていた。
 本当は、そんな些細な変化に気付くほどの視線に耐えられなくなったのだ、と自分ではわかっていた。怖くて、受け切れなかった。臆病な自分の少しの変化にさえ、気付いてしまう彼の目に触れるのが怖かった。
 ふ、と彼が視線を逸らして天井を見た。
 それを機に、空気を変えてみる。
「随分疲れてるみたいだけど」
「ああ、疲れた」
 ぼそりと呟く。
 (元)彼女の結婚式に出席するのだから、やはりそれはいろいろと複雑なんだろうかと思っていたら、
「ああいう場はどうも好きになれない」
 もっと基本的なところで疲れた、と訴えた。
 本当に(元)彼女という部分ではもう吹っ切れているのかと少し考えてみたけれど、彼の表情からは何も読み取れない。
 そんなことを思って見ていたら、また目が合った。
 そうすると、さっきとは違う、何かもの言いたげな瞳を今度は向けてくる。言いたげで、けれども何かを躊躇っているかのように、静かに見上げてくる。その静かな訴えに、今度は逸らすことも出来なくなって、同じように見返した。
 しばらく見合った後、あまりに黙っているのに堪りかねて、「何?」というふうに少し首をかしげると、彼はつと視線を落として、右手をスーツのポケットに突っ込んだ。そしてそこから何かを取り出した。
 差し出された手の平には、リボンの掛かった小さな箱が乗っていた。
「誕生日、何もしてなかったから」
 それだけ言うと、あとは黙った。
 誕生日、という言葉が頭を廻ったとき、先日の彼の誕生日のことを思い出した。料理を作ってシャンパンでお祝いをした、ただそれだけだった。それだけだったのに、その為に、こんな物を用意するなんて。それに、私の誕生日はもう半年も前に過ぎている。目の前に差し出された小箱を、黙って見つめた。
 そんな私の表情を読み取ったのか、彼は私の手を取ると、何も言わずそこに小箱を乗せた。
 そして足元のブライダルバッグをテーブルの上に置く。
「これ、適当にしておいて」
 そう言うと、ネクタイを掴んで立ち上がり、私の横を擦り抜けて、ドアへと向かう。
 その後姿に、何かを言おうと口を開いたけれど、何を言えばいいのかわからなかった。
 迷っているうちに、後姿はドアを開けて、部屋を出て行く。
 結局何も言えないまま、その姿を見送って、閉じられたドアを暫く見つめた後、ゆっくりとした動作で彼が座っていた場所に腰を下ろす。
 手の平の小箱にようやく目をやったのは、それからだった。

 太腿に付いた肘を頬杖にして、目の前の小箱を見つめている。
 開かれた小箱の中の、青い石の付いたホワイトゴールドのネックレスを、さっきからずっと見ている。
 青い石の色が、先日見た絵の青さに似ていた。
 その色を見ながら、いつまでも、秋の長い夜の間中、頬杖を付いてそのネックレスを見つめていた。



47

 今日の夕食は鍋にした。
 少し肌寒くなってくると、鍋が恋しくなる。温かいものが食べたくなる。
 机の真中に置いたコンロの上でグツグツ湯気をたてている鍋を見ると、何故かほっとする。小さい頃、家族みんなでひとつの鍋をつついていると体も心も暖かくなった。具を取り合ったり譲り合ったり、まだ早いと怒られたり、そんな他愛の無いことでも楽しかった。湯気を挟んで交わされる会話と時々そこから生まれる笑いが、いつも鍋の周りにはあった。温度につられるように部屋の空気も暖かくなる。そんな記憶が、鍋というカテゴリーには染み付いていて、だから鍋を見るだけで、何となくほっとした気分になる。子供の頃に植え付けられたイメージというのは、一生消えないのかも知れない。
 何より、鍋は手軽で便利だ。材料をざっと切って、鍋に放り込むだけでいい。野菜は沢山食べられるし、あれやこれやと入れると、結構色々食べた気分になる。具から出るほど良いダシが効いて美味しくなるし、またそのダシに、後で麺やご飯を入れて煮立てると、堪らなく美味しい御馳走が出来る。ひとつで二度味わえる、とてもお得感の高い料理でもある。
 一人分だと材料が大量に余ってしまうけれど、二人分だといい具合に消費できる。だからもし、今でも食事を別々にしていたとしたら、我が家で鍋は出来なかっただろう。今年も鍋を食べる機会は、忘年会とか新年会とか、そんな機会しか無かっただろう。それが、鍋が出来る。そんなことで、彼との共同生活と、そして食事を共にする人間がいるということを実感する。
 何でもないように思えて、けれども結構何でもないことはない。そんな小さな変化が散りばめられた生活が、今の私の全てを占めている。
 鍋の材料を切っては盛り付けながら、そんなことを考える。
 そのうちに、皿の上は具で一杯になっていた。何だか今の自分の頭の中のように、色々なものが混ざっている。野菜と肉と魚貝と豆腐と葛きりとつみれ。調子に乗って切っていたら、野菜が山盛りになった。その皿を、ダイニングのテーブルに持っていくと、カセットコンロに火を点ける。
 丁度タイミング良く、彼が入って来た。
 入って来るなり、テーブルを見て驚いている。
「え、鍋?」
 その反応に、もしや、と一瞬思った。
「え、嫌いだった?」
 すると彼は首を振った。
「いや」
 それから自分の席に座ってまじまじと鍋を見た。
「鍋なんて、家でほとんど食べたことがなかったから」
 珍しそうに眺めている。
 ああそうか。
 すぐにそう思った。
 彼は子供の頃、家政婦の作った食事を一人で食べていたのだ。それから成長した後も、ひとりで暮らしていた生活に、鍋などというものはあまり縁が無かったろう。それこそ、外で食べる以外には、家で鍋にお目にかかる事はほとんど無かったに違いない。
 ここにもまたひとり、小さな変化に目を瞠っている人がいる。
 鍋と彼と皿の上の一杯の具を見比べた。
 何だか少し、可笑しくなった。
 鍋を珍しそうに眺める人なんて、今の世にそうそういないだろう。まるで外国の人のようだった。
 煮立ち始めた鍋に、ダシの出る具から先に入れていくのを、彼は観察するように見ている。
「それ、入れてくれる?」
 そんな彼に、皿の彼側のほうに盛ってある野菜を指差すと、「え、あ」と言って、オタオタと箸を持った。
「白菜は芯のほうから入れて」
 柔らかい葉っぱの部分を掴もうとしていた彼の箸は、私の言葉を受けて、またオタオタと方向を変える。
 ぎこちない動きで、白菜を掴むと、鍋の中に運んだ。
「もっと一杯」
 現場監督に叱られる労働者のように、彼の箸はウロウロと、皿と鍋の間を慣れない手つきで行ったり来たりする。
 鍋はそのうちに、いい匂いのする湯気を立ち上らせ始めた。
 彼と初めて共同作業で作った料理だった。
 湯気を挟んで向かい合って、鍋をつつく。
 鍋の中身は、ほどなくして少なくなった。二人して夢中になって食べるので、すぐに足さなくてはならなくなる。
 私は肉と魚貝を、彼は野菜とその他を担当した。
「豆腐はその豆腐すくいで、あ、そこ、まだ煮えてないから」
 自然といつもよりも交わす言葉が多くなる。鍋の熱気で、体がほこほこと、温まって来るのを感じる。
 体がほぐれるように、段々と、心も温まってほぐれていくような気がした。
 湯気の向こうの彼は熱心に、鍋の中の様子をチェックしては、具を足したりしている。
 ひょっとして、鍋奉行に向いているのではないか、と思った。
「あの」
 声を掛けると、ふと顔を上げた。
「あの」
 またそう繰り返す私に、ただじっと目を向けている。
「昨日は、ありがとう」
 ようやくそう言うと、一瞬間があってから「うん」と小さく返事をして目をまた鍋に戻した。
「凄く綺麗な色で」
 言葉をひとつひとつ選ぶように口にする。
「それで、とても、嬉しかった――」
 最後は外国の人のようにたどたどしい言葉つきになった。
 湯気の向こうの彼はまだ鍋の中を見ている。
 けれども、表情はとても穏やかだった。
「そう、良かった」
 穏やかな表情に、満ちていくように微笑が広がる。
 温かい鍋の温度に、心も体も解きほぐされたような笑顔だった。
「良かった」
 もう一度そう言うと、彼はまた手を動かして、野菜を入れ始める。
 私は肉と魚貝を。
 そう思ったら、彼が皿を取り上げた。
「鍋って男がするもんだろう」
 どこでそんな知識を仕入れたのだろう。鍋をあまり知らないクセに。
 楽しくなってきたらしいその作業を、任せて私は食べるほうに専念することにする。
 唯一、自分に出来る料理を見つけたことが嬉しいのか、自分の仕事を見つけたことが嬉しいのか、随分コツを覚えたらしい彼は、嬉しそうに鍋に向かっている。
 そんな湯気の向こうの彼を、楽しげな気分に包まれながら、ずっと見ていた。
 温められた部屋の空気が、初めて優しいと、そう思った。



48

 クリスマスなど縁がないと思っていた。
 ここ数年は誰かと過ごすこともなく、盛り上がる周囲の人々や街のイルミネーションを、まるで遠い国のことのように無関心に眺めていた。イヴの夜に仕事もそこそこに帰る同僚や後輩達を尻目に、一人仕事をしていることも少なくなかった。ただの国民的行事に、何をみんなそんなに浮かれているのかと冷めた目で見つめていた。
 そんな自分も、かつてはみんなと同じように、夢見がちな瞳で街のイルミネーションを見ていた時があった。ショーウインドーのディスプレイを覗いては、何が相手に喜ばれるかと必死に頭を悩ませて、何時間でも街を歩いてまわったこともあった。
 その時は周囲と同じように、まるで疑う事もない幸せが、自分のもとにあると信じていた。
 約束の時間に例えどれだけ待たされようが、待つ時間が幸せだとさえ思った。
 なかなか会えない時にも、次に会える時のことを考えるだけで、心が満たされていた。
 けれども、それが本当はまるで薄くて脆い、一瞬にして壊れる作り物だったと知った時、その時からおそらく私の心は凍りついて、何にも動かされなくなってしまった。閉じこもったサナギのように、周囲から自分を切り離していた。
 そんな自分が彼と結婚したのは、関わろうとしてくる周囲が面倒で鬱陶しくなり、隠れ蓑が欲しいと思ったからだった。丁度彼もそんな隠れ蓑を探していたこともあって、酷く安易にことは至った。
 安易過ぎて、拍子抜けするほどだった。
 ことというのは、タイミングが全てと言えるかもしれない。
 筋書き通りに進む寸劇のように、「では」「そのように」とことは運んだ。
 信じることを否定し、そこに何も見出せなくなっていたのに、この結婚にだけは私はすんなり同意した。それは今から思うと、とても不可思議な行動だった。
 もしも、それが彼ではなかったのなら。
 果たして自分は同じように同意していただろうか、と時々そんなことを考える。
「せっかくだから、外で食事でもしよう」
 イヴの前の日にそう言ったのは彼だった。
 特に用事もなかったので同意した。
 後から考えると、素直に同意した自分が意外だった。
 あれほど冷めた目で見ていた国民的行事に、自分が参加することに抵抗なく同意したことが、意外だった。
 当日は駅前に設置されている、大きなクリスマスツリーの前で待ち合わせることにした。
 彼は仕事を早く片付けるために、いつもより朝早く出掛けて行き、私が朝食を摂る頃にはもういなかった。
 そんなに無理をしなくてもいいのに、と思いながら、自分の今日の仕事の予定を頭で立てつつ、少し急がないと、と思った。
 出社してみると、幸い仕事はそんなに忙しくはなく、定時が来る頃には予定通りに終われそうだった。
 ふと見回すと、周囲の人間も心なしか今日はそわそわと時計を見ている者が多いことに気付く。去年まではそんな光景を冷めた目で見ていたのに、今年は自分が違う側にいることが不思議だった。
 退社して会社を出ようとした時に、エントランスで後輩とバッタリ会った。
「あ、先輩」
 見ると、彼も今から帰ろうとしているところだった。
「ひょっとして、デートですか?」
 いつもよりいいネクタイを締めている後輩を見ながら、微笑を返す。
「そっちこそ」
 そう言うと、彼はヒヒヒ、というように笑ってみせた。例の受付嬢とは上手くいっているらしい。いつか飲みに行った時には不平不満も言っていたが、今ではそれも可愛さのうちに相殺されているようだ。
 出口で手を振って後輩とは別れた。
 駅前に着くと、大きなクリスマスツリーが広場で出迎えている。クリスマス当日まで、カラフルなイルミネーションで着飾って、毎年人々の目を楽しませているツリーだった。だからこの時期は、よく待ち合わせ場所として利用されている。
 多くの人々が誰かを待っている中、グルっと一周してみたが、彼はまだ来ていなかった。仕事が遅れているのかもしれない。朝早くに出掛けて行ったことを思うと、少々待たされても文句は言えないと思った。もしも何かあれば、メールで連絡してくるだろう。とりあえず、もう少しこのままで待つことにした。
 同じように、周りでは沢山の人が相手を待っている。こんなふうに、多くの人に混じって誰かを待つのは、本当に久し振りだと思った。そして意外なことに、それが嫌ではないと思っている自分がいる。かつての待つ時間を楽しいとさえ思えた無邪気な自分を思い出した。あの頃の自分とは大きく違っても、人を待つことが苦にならない自分というものが、あの頃のような優しい何かを心に起こしている気がして妙にほっとする。棘だらけだった平原に、柔らかいいくつもの芽が芽吹いたような、そんな感覚だった。
 ふと、ぼうっと見ていた視界に誰かが立ち塞がる。目の前に立ったその人の顔を、明滅するイルミネーションが照らした。赤や青の光が溢れる中で、その人は私を見つめて立っていた。
「ひさしぶり」
 笑う顔は、ほとんど変わってはいなかった。
「元気だった?聞いたよ、結婚したんだってね」
 髪型が少し変わったように思えたけれど、記憶の中の映像が、果たして正確なのかどうかもわからない。
 それくらい、自分の中で、その人の記憶は封じ込められていた。
「綺麗になったね」
 黙ったまま何も言わないのに、その人は勝手に自分の言葉を繋げていく。
 ああ自分勝手なところだけは変わらないのだ、と目の前の相手に関する自分の評価は下った。
 初めて本当に好きになった人だった。
 初めて酷く裏切られた人だった。
「今ひとり?」
 口を開かない私を不思議にも思わないのか、その人は懐かしそうに語り続ける。
 自分が傷付けたことなど、今はもう遠い昔の物語だとでも思っているのかも知れない。
「遅くなってごめん」
 指先まで冷たくなった手を、温かい手が握る感触がする。
 いつの間に隣に立っていたのか、彼の手が私の手を握っていた。それはしっかりと、繋ぐという言葉が相応しいように、力強く握っている。手の大きさが違う分、スッポリと私の手は彼の手の中に納まってしまっていた。
「じゃあ」
 彼は目の前の人に軽く会釈をすると、私の手を引いて、混雑する広場の中をどんどんと歩き始める。
 後ろに遠ざかるその人の姿を、私は一度だけ振り返った。行き交う人々の間に見え隠れする姿に、今はもう何も感じなくなっている自分を確認して、それから彼のほうにまた目を向ける。
 ものも言わないまま、しばらく彼は人々の間を歩いて、やがて広場を抜けて人がまばらになった頃にようやく歩を緩めて立ち止まった。
 前を向いたままでポツリとひとこと言葉を漏らした。
 ごめん、と。
 私が黙ったままでいると、尚も彼は言葉を続けた。
 君があんまり辛そうに見えたから、と。
 でもあれで良かったんだろうか、と。
 私の言葉を待たずに繋げられた言葉は、けれども、利己的などではなく、寧ろ、思いやりと謝罪の気持ちに満ちていた。
 一方的な彼の態度に、私は怒ってもいい筈だった。
 それでも、返事をする代わりに、私は彼の手をぎゅっと握り返していた。
 ゆっくりとこちらに向けられる瞳を見て小さく返事をする。
 ありがとう、と。
 彼はようやく安心したように少し笑顔を浮かべる。節目がちに微笑んでから、私の胸元に目を留めた。
 それ、してくれたんだ?
 青い石のネックレスに気付いた。
 うん。
 良かった、似合ってて。
 嬉しそうに笑った。
 どこに食べに行こうか?
 ちょっと待って。
 え?
 もう少し、ここ歩きたい。
 道の両側のイルミネーションが綺麗だった。
 うん、わかった、そうしよう。
 まだ手は繋いだまま、彼は歩き始める。
 何も聞かない。
 さっきの出来事が何だったのか、誰だったのか、何も聞かない。
 私も何も言わない。
 言葉を交わさない代わりに、繋いだ手から何かが伝わる。
 言葉に出来ないから、そうやって伝え合うものがあるのだということを、今日初めて知った。
 そして、街のイルミネーションがこんなに綺麗だったということにも、今日初めて私は気が付いたのだった。



49

 年末は大掃除、というのがこの国の定番行事になっている。
 普段から掃除をしておけば、別に年の瀬になってバタバタと大騒動することもないと思うのだけれど、この国の国民は、一斉に決められた行事をすることを好むらしい。「年末は大掃除」というのが、一種の儀式のようになっていて、それを行うことで、「一年の終わり」を実感できるのかも知れない。そして「みんなもするから」という妙な連帯意識が、新しい年を迎える厳かな気分を、一層盛り上げるのかも知れない。
 例に漏れず、我が家にも大掃除の機運が到来した。
 普段定期的に掃除はしているものの、やはり全国を覆う「大掃除の熱気」に何となく煽られて、大晦日の朝から台所の換気扇など外してみようという気になった。いつだったか、台所の掃除に嵌った時に、一度掃除をしたことがある。それきり放っておいたせいで、やはり外してみると、フィルターから羽根から油汚れが酷かった。これは強敵だと強力な洗剤を持ち出して来る。けれども貼り付いた油はそう簡単には落ちないもので、擦るよりもしばらく洗剤に浸けておく事にした。
 その間に台所のシンクやらコンロを掃除しようと思っていると、外出していた彼が帰ってきた。彼はようやく今日から正月休みに入ったので、朝は少々遅くまで寝ていたが、起きてからどこかへ出掛けていた。
「あ、大掃除?」
 服の袖をまくり上げて洗剤を片手にしている私を見るとそう聞いた。
 頷くと、手伝おうか?と言うので、
「じゃあ、窓と網戸をお願い。クリーナーはそこにあるから」
 そう言うと、うんわかった、と返事をして、一旦自分の部屋へ戻った。そしてコートを脱いで来ると、同じように腕まくりをして、雑巾を手に取る。そしてリビングの窓を拭き始めた。シンクを磨きながら見ていると、とても手際よく窓を拭いていくのに感心する。頭のいい人はこんなところにも違いが出るのだなと思う。そして、もしかして彼は主夫に向いているのではないかと思った。何をやらせても、大概すぐ私よりもコツを掴んでいる。この間の鍋だってそうだ。そしてそこには彼なりのこだわりというものがあるらしい。冷蔵庫の並べ方もキチンと収まるように分類されている。以前は適当に私が並べていたのを、彼がちゃんと仕分けをした。種類別に分かり易いように、そして何より取り出しやすいようになった。そういう事が苦手な私としては、とても助かっている。人によってはそんなことをされるのが、とても嫌だという人もいるが、私は一向に気にならない。寧ろ、自分の苦手なところを補ってくれる人が身近に居て良かった、とそう思うくらいだ。
 人には相性というものがある。
 どんなに努力してみても、合わない相手とは不思議なほど噛み合わないものだ。けれどもその反対に、妙に通じ合うものがある者同士では、何も言わなくても了解できるものがある。凹と凸のように、しっくりと噛み合う。それは信頼関係とも深く関わり合っている。
 そう考えた時に、私は彼を信頼しているのだ、という事に改めて気が付いた。
 長い間、人に、そして異性に対して抱いていた不信感というものが、今は薄れている。
 ふと気が付くと、彼が側にいる事を、まるきり無条件に許している。
 それは言い換えれば、心を開いた、ということの証ではないか。
 心を開くということは、人によっては並大抵の出来事ではないことがある。
 自分はまさにそうであって、昔人に傷付けられてから、心を閉ざしてしまった。一度閉ざした心を再び開こうとするのは、手術で縫い合わせた傷口を、また開くのと同じくらい痛みを伴うことだ。
 けれど、いつの間のか、自分は彼にその傷口を開いている。
 先日の、クリスマスの出来事を思い出す。あれは、彼なりに、精一杯私を守ろうとしてくれたのだ。
 それは彼もきっと、抱えている傷口があるからだと思った。
 子供の頃から受けてきた傷、それが『彼』となってどうにも制御ができなくなった傷。それによって、もしかしたら人との別れを経験しなければならなかったのかも知れない。
 見えない傷が互いにあって、それをいつの間にか私達は埋め立て合っている。
 その埋め立て作業が、今のような共同作業であって、そしてまたひとつ、私達は開いた穴を埋めていく。
 凸凹とした荒れた土地を、均していく。
 互いにそうと確認したわけでも話し合ったわけでも無い。
 けれど、そうだと思える何かが、私達にしかわからない形で存在している。
 それは形を変えながら、けれどもずっと始めから、本当はそこに在ったのかも知れない。
 私にも、彼にも、本当に必要だったもの。
 人に心を預けるということ。
 預けられるということ。
 そんな相手が側にいるということ。
「窓と網戸、終わったけど」
 気が付くと、彼が側にいる。コンロの汚れに手間取っている私を見て、シンクに放置してある換気扇のフィルターと羽根を見た。
「あれ、やろうか?」
 そう言ってくれるとどんなに助かるかと思っていた言葉を、彼は易々と口にする。
 正直、そろそろ油汚れのしつこさに、辟易としていたところだった。
「うん、物凄く助かる」
 知らず口に出たのは甘えるような口調で、その言葉に彼は少し笑ったように見えた。
 何より、そんな口調でものを言った自分に、自分で驚いていた。
 また少し、凸凹が埋まったような、そして何より、彼との間にある距離感が、埋まったような気がした。
 心を開くということは、案外恥ずかしいことなのかも知れない。
 恥ずかしいなんて、随分久し振りに思った気がする。
 彼を見ると、更に腕まくりを深くして、フィルターに取り組んでいるところだった。
 二人してご飯を食べた分だけの汚れが染み付いたフィルターを、ゴシゴシと擦っている。なかなか落ちないな、とか、しつこいな、とか言いながらやっている。それだけのものが、今私と彼との間に比例して在るのだということを、その姿を見ながらこっそりと思う。共有する時間と空間と傷を埋め合う関係が、その汚れの中にある。
 彼がおもむろに首を向けた。
「人が住むって、こんなに汚れるんだな」
 そして、続けた。
「ひとりで住んでた時は、こんなに汚れなかったのに」
 大掃除と言う行事は、一年の間に経てきた様々な事柄や時間を、改めて振り返るための国民的儀式なのかも知れない。
 新しい年が来る前に、汚れと共に洗い落として行くものと、拾い集めて仕舞って行くものと、選り分けて整理をするための、心の儀式ではないかと、ふと思った。
「年越し蕎麦とか、食べる?」
 何気なく聞いてみると、彼は目を輝かせた。
「食べる」
 まだまだ年末行事が目白押しだった。
 働いた後の蕎麦はさぞかし旨かろうと思いながら、それを楽しんでいることが、今年を締めくくる最後の記憶であって良かったと、そう、思った。



50

 掃除が終わってから、年越し蕎麦を食べた。
 年越し蕎麦を食べたのは、昔実家にいた頃以来だった。その頃は、家族揃って大晦日に食べるのが世間と同じく恒例となっていて、一年を終えるためのそれもまたひとつの儀式だった。けれど、大人になって家を出てからは、食べた記憶がない。正月に家に帰るのはいつも年が明けてからだったので、年越しの為の行事などとは無縁だった。
 彼はどうだろうと思って聞いてみると、「ウチは元々年越し蕎麦を食べる習慣がなかった」と言った。
 ああそうか、と彼を見ていて妙に納得する。
 育ちが良さそう、と言うか、和風の習慣では育っていない匂いがする。両親共に海外への出張も多かった彼の家では、あまりこの国の習慣に捉われた生活をしていなかったようだ。寧ろ、洋風が似合う。いつだったか、高級レストランへ行った時、気後れせずにやけに手馴れているといった感じだったのを思い出す。私の家のような「大衆的」ではないのだ。
 だからかえって、物珍しいのか、彼は目の前の年越し蕎麦と神妙に向かい合っている。
 しげしげと眺めてから、堪能するように食べ始めた。
 鍋の時と言い、本当に珍しい国民だと思う。
「美味しい」
 目を輝かせて食べている様を見ながら私も蕎麦を啜る。
 労働の後というものは、何を食べても大概美味しいものだが、それに年越し蕎麦などという付加価値が加われば、尚更そう思うのかもしれない。
 そう思ってから、目の前で子供の様に蕎麦を啜っている姿に、可笑しくなった。
 食事と言うものは、思えばその時の環境によって全く味も違ってくる。ひとりで食べるのと、誰かと食べるのと、それから誰と食べるのかで美味しいか美味しくないかまで違ってくる。さも美味しそうに蕎麦を啜っている目の前の姿に、つられて本当に物凄く美味しい蕎麦のように錯覚してしまいそうになる。
 スーパーで買った安物の蕎麦が、うっかり名所の行列が出来る蕎麦屋の蕎麦に化けている。
 汁の一滴まで飲み干して満足気に器を置いた彼は、「普通の蕎麦と何が違うのか」と聞くので、「何も変わらない」と答えると、びっくりした顔をした。そしてスーパーの安物の蕎麦だと教えると、「蕎麦屋で食べた蕎麦よりも美味しかった」と感慨深げな顔で器を見ていた。
「夜、どうする?」
 急に彼が顔を上げたので、蕎麦を啜っていた手を止めてキョトンとする。
「夜?」
「折角だから、一緒に年越しでもどうかと思って」
 いつもは夜になると、それぞれの部屋へ引き揚げるのを、「一緒に過ごさないか」と誘っているのだとわかった。
「大晦日ってどうしてる?」
「どうって、…別に何も」
 実家を出てからは特に何もせず、毎年普段と変わらない生活をしていた。
 相談の結果、無難に某歌合戦でも見ながら飲もうと言うことになった。幸い、冷蔵庫のアルコールの在庫は充実している。つまみもそこそこ買ってあった。
 今まで馬鹿馬鹿しくて敬遠していた年越しの行事を、マニュアル通りに進めている今年の生活は、自分からすれば画期的だった。
 そう思えば、この一年の全てが、何より画期的だと言わねばならない。
 こんな生活を始めたこと。それが一番の「画期的」な出来事だった。
 その「画期的」な相棒が、冷蔵庫から色々と持ち出して来ている。
「ビールとカクテルと、あとワインもあるから」
 なんて机の上に並べている。「焼酎」が無いところが、やっぱり育ちの良さを感じさせると思った。
 私は焼酎も嫌いではなかったけれど。
 某歌合戦が始まって、アルコールを摂取しながら、つまみを口に放り込む。
 何とはなしに、二人してテレビに見入っている。
 余所のうちではよく見られるこんな光景も、ウチではとても珍しい。
 特に彼と私が歌番組を見るなんて光景は、滅多に無い。
 傍から見れば、歌合戦よりもこの光景のほうがずっと面白いかも知れない。
 偽装結婚をした者同士が、大晦日に一緒に歌合戦を見ているなんて構図は、珍妙だろう。
 最も、最近ではその「偽装」と言う言葉を、どこかに置き忘れてきているような日常が続いているのが現状だったけれども。
 歌合戦が佳境に入る頃には、私も彼も少々酔いがまわっていた。
 そのせいで、テレビに対する野次が時々入ったりする。
 下手だとか上手いだとか、好きだとか嫌いだとか。衣装が似合ってないだとか、派手だとか地味だとか。
 他愛の無い野次をつまみにまた飲んだ。
 そして「だからさあ」「いやでもそれは」「エー?」「絶対そうだって」などとわけのわからないことを酔いに任せて言い合う。アルコールのちゃんぽんは結構後からがキツイ。頭がふらふらとしてきた。
 歌合戦の決着がつく頃には、二人ともしとどに酔って、結局どちらが勝ったのかも定かではなかった。
 そして気が付くと、テレビの画面にはいつの間にか、静寂そのもののどこかの寺の風景が映し出されていて、参拝客が丁度鐘を撞こうとしているシーンだった。
 煩悩の数だけ鐘を撞く、と言う言葉を酔った頭で思い出した。百八つの煩悩。それを祓うために、新しい年になる0時をはさんで鐘を撞くと言う。
 彼を見ると、同じように酔いのまわった目で画面を見ているところだった。
 私と彼が今年作った煩悩は、この鐘で祓われるのだろうか、と思った。
 真っ当に考えると、それはとんでもない煩悩のような気がする。
 こんなものでは祓われないくらの煩悩かも知れない。
 ひとつひとつの煩悩が大きすぎて、どれだけ鐘を叩けば清浄化されるのだろうかと思う。
 親を身内を欺いて、世間を騙し、親友までも巻き込んだ。
 そんなものが鐘を撞くことで、消えて無くなるとは到底思えない。
 ゴーンと一際大きい鐘の音がテレビから響いた。
 新年を祝う言葉が、画面に現れたアナウンサーの口から漏れている。
 隅に映っている時間が0時に変わったのを見て初めて、年が明けたことに気付いた。
「あけましておめでとう」
 隣りで静かな声がする。
 酔っているにしては、それはハッキリとした発音だった。
「あ、あけましておめでとうございます」
 何故か私は敬語で返して、更に彼に向き直って頭まで下げた。相当酔いがまわっているらしかった。
「今年もよろしく」
 にゅっと下げた視界に手が伸びてきたのを見て、頭を上げると、彼が笑って握手を求めていた。
「今年、も?」
 何とはなしにその部分を繰り返す。
「うん」
「今年もまだここにいる?」
 呂律の怪しくなった口調で私は何かを言っていた。
「君さえ良ければ」
「来年も?再来年も?」
 くらくらし始めた視界で彼は一瞬目を細め、そして酔いで薄っすらと赤く染まったそれを僅かに潤ませると、穏やかに笑った。
「君さえ、良ければ」
「そうか、良かった」
 求められていた握手の手に自分の右手を重ねると、その弾みで倒れ込んだらしかった。
 何かとても居心地の好いふわふわした場所で眠りにつく時の、安らぎのようなものに包まれていた感じがした後、何もわからなくなった。
 翌朝気が付くと、自分のベッドで寝ていた。
 側の椅子に、昨日着ていたカーディガンが掛けてあった。
 ベッドの中で鈍痛のする頭をめぐらせて、昨夜のことを思い出そうとしたけれども、歌合戦が終わった頃からの記憶が酷くおぼろげで、はっきりと思い出すことは出来なかった。
 ただ、優しいトーンの声で何かを聞いていたような、そんな気がした。


(Stage5 : 終わり)

*つづきは拍手で連載中