ギソウ、ケッコン (Stage1)





 私達は、結婚した。
 偽装結婚をした。
 見合いの当日、利害の一致をみた私達は、即決で契約を結んだ。
 互いの親の口煩い「結婚しろ」という呪文から解放されるための、これは契約婚だった。
 見合いから式まではわずか三ヶ月。
 異例の速さの、偽装結婚だった。


 マンションの家賃と必要最低限の生活費は折半。掃除洗濯などの家事はそれぞれで。食事も各自で勝手にする。ただし、風呂掃除とトイレ掃除は譲歩して私が引き受けた。
 互いの生活には干渉しない。家に連れ込まなければ、恋愛も自由だ。誰と、どこで、何をしようが構わない。そう契約した。
 表向き、夫婦を装っていればいいだけのこと。
 「結婚」という名の、いわゆる「ルームシェア」だった。
 彼が何をしている人なのか、詳しくは知らない。知っているのは、どこかの大学の研究室で、何やらの研究をしているということ。それ以外は別に興味もないので、知らないままにしている。
 そして彼も私のことをよく知らない。どこかの商社で一般事務をしている、とだけ伝えてある。
 式には互いの仕事場の人も来ていたが、覚える気もなかったので全く記憶に残っていない。
 多分、彼もそうだろう。
 私達は互いの自由を確保するための結婚をした。
 自由になるための、そのためだけの、結婚をしたのだった。


 仕事から帰ると、そのまま冷蔵庫へ直行して缶ビールを取り出し、リビングダイニングのソファに身を投げた。カシュッという甲高い響きと共に缶をあけると、やおらビールをあおる。ゴクゴクと飲んで一息つくと、ソファの背凭れに頭を凭せ掛けた。そのまま天井を仰いでいると、足音がして、彼が部屋に入ってきた。
「着替えもせずに、まずビールか。良い身分だな」
 黒縁の細いフレームの眼鏡を掛けている。仕事をしていたらしい。彼がその眼鏡を掛けるのは、仕事をする時だけだった。
「私の買ったビールだ、別に文句を言われる筋合いはない」
 言い返すと、彼はちょっと肩を竦めて見せた。そして冷蔵庫を開けると、水の入ったペットボトルを取り出した。
「先に風呂を使うが、いいか?」
「ああ、私はもう少しここで休憩してるから」
 天井に目をやったままで答えると、「そうか」と彼も答えた。そして
「随分疲れてるようだな」と珍しく声を掛けてきた。いつもならさっさと自分の部屋へ引き揚げるところだ。
「疲れている」という言葉に、ふとそうなのかと思ってもみたが、何かピンと来なかった。そして、考えた末に、こう言ってみた。
「いいや。ただ、もうすぐ春だな、て思って」
 だからビールをあおって天井を見上げる。ただ、それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。ただ、それだけ。
 ペットボトルから水を補給し終えると、彼はそれを冷蔵庫に戻した。そして部屋を出て行こうとする間際に
「変わった女」
 一言そういい残した。
 そして風呂場へと足音は去って行く。
 それを聞きながら、私は思っていた。――そうだ、私は変わった女だ。その、何が悪いのだ。別にお前に迷惑は掛けていないはずだ。風呂だって、先に譲ってやったではないか。――
 また缶に口を付けると、ゴクリと飲んだ。耳に聞こえてくる水音を聞きながら、ゴクリ、ゴクリ、と喉元でも水音を聞く。

 『水温む』――確かそんな春の季語があったなと思いながら、私は天井を見つめて、ずっと風呂場の水音を耳に聞いていた。





 帰宅して玄関のドアを開けると、目の前に人が立っていた。
 こちらを向いたその人は、突然開いたドアに驚いたように目を見開いて、それからにこりと微笑むと、軽く会釈をした。そのはずみに、肩の後ろにあった長い桃色の髪がさらりと流れて落ちる。その髪から、とてもいい匂いがした。
「失礼します」
 女性らしい小鳥のさえずるような声がそう言うと、「ああ」と彼女の後方から返事がした。私に言ったのかと思った挨拶は、どうやら中にいる人間に向けられたものだったらしい。
 玄関の前にぼうっと木偶の坊のように突っ立っている私の前を、いい匂いのする髪が通り抜けていく。それはあたかも、羽ばたく蝶が、鱗粉を振りまくように、自分の残り香を、家の中の空気に紛らせていく行為に思えた。動物で言えば、マーキング、と言ったところか。
 揺れる桃色髪を玄関前で見送っていた私は、それが通路の角を曲がって見えなくなると、マーキングされたそのテリトリーに足を踏み入れる。荒らされたテリトリーをまた自分の匂いに塗り替えようとする動物さながら、とりあえず、窓を開けて空気を入れ替えようと思った。
 いや、その前に、まず冷蔵庫だ。
 キッチンに入ると、続きのリビングのソファに座っている彼が見えた。新聞を読んでいる。
 蛇足だが、新聞代は必要最低限の生活費に含まれていた。新聞を二つ取ると言うのはやはり不経済だ、と言う意見が一致をみたのだ。新聞は、両方が読めるように、いつもリビングテーブルに置かれている。
 その姿を見ながら冷蔵庫を開け、ビールを手にした。それを持ってダイニングテーブルに鞄を置くと、椅子を引いて腰掛ける。カシュッという甲高い缶を開ける音が、ダイニングとくっついたリビングにも響いた。
「連れ込むのは禁止だったはずだぞ」
 缶に口を付けながら契約違反を唱えた。
「書類を届けてもらっただけだ」
 新聞から目を離そうともせずにそう言った。確かに、ソファの前のリビングテーブルには大学名の入った封筒が乗っている。
「へえ……カノジョ?」
 二口目に口を付けて、さして関心も無さげな声でそう訊ねた。
「干渉はしない約束だったはずだが」
「ああ――」
 缶から口を離した。
「そうだったな」
「以前は、付き合ってた」
 また口に近付けようとした缶を止めて見ると、変わらず新聞を読んでいる。
「別れたんだ?」
「随分前にな」
「ふうん」
 三口目を口に含みながら、『あちらはまだ未練タラタラって感じに見えたけど』、と心の中で呟いてみる。
「やっぱりマーキングだな」
 新聞を見ていた顔をひょっと上げた。
「あ?」
 やっぱり後で窓を開けておこう、と思いながら、ゴクゴクと四口目を飲んだ。
 そんな私を彼は奇妙な目で見つめている。
 そして、新聞を畳んだ。
「ふく」
 ふく?拭く?福?
「服、また着替えないままか。相変わらずだな」
 ああ、服。
「その悪癖、直したらどうだ」
「干渉しない約束だろう」
 封筒を持ってソファから立ち上がると、これは干渉じゃない、心ある者からの忠告だ、と彼は呆れたように言い、すたすたと自分の部屋へと引き揚げていった。
 その後で私はしばらくなおも缶の残りを啜り、それが無くなると、立っていって窓を開けた。
 まだ冬の終わりの風は冷たかったけれど、コートを着たままだったので寒くは無かった。
「ほら、お陰で寒くないじゃないか」
 悪癖と名付けられた性癖を、正当化するために言ってみる。ほろ酔いが回って、少しいい気分になった。
 できるならもうこのままベッドで眠ってしまいたいと思った。私の部屋のベッドはダブルベッドなので、広々と両手両足を伸ばして眠れるのだ。親向け対策、ということで、両方の親には二人して、そのベッドで寝ていると思わせてある。
 もう少し冷たい外気で火照りを冷ましたら、とりあえず、服を着替えよう。そしてマーキングされた体を、シャワーで洗い流そう、そう思った。
 ほんのりと、鼻をくすぐったあの女性特有とも言えるいい匂いが、その時また一瞬鼻腔の奥に甦った。
 かつて渦中にあった頃の自分も、あんな匂いをさせていたのだろうか?
 そんな取るに足らぬことをふと考えたのは、久し振りだった。





 玄関のドアを開けると、中は真っ暗だった。
 そう言えば、今日は出張だとか言ってたな――そう思い出しながら、手探りでスイッチを探し当てると、廊下の明かりを点ける。ようやく家の中が明るくなった。しばらくひと気のなかった空間の空気が、ヒヤリと肌を刺す。
 靴を脱ぐと、いつものごとく、玄関からキッチンへと直行する。明かりを点けると、まるで待っていたように、冷蔵庫が銀色の鈍い光を放っていた。無意識に足はそこへと向かい、手を伸ばす。そしてそのドアを開けようとして、思わず、手を止めた。
 冷蔵庫の曇った銀色のドアには、クマとウサギのファンシーなマグネットで、一枚の紙が貼ってあった。それはスーパーのチラシの裏紙で、そこにはサインペンで黒々と、次のような文字が書いてあった。
『 まず、着替えろ!』
 『まず』の字の左側ではクマが、そして『えろ!』の字の右側ではウサギが、それぞれ気の抜けたようなユルイ笑いを浮かべている。
 しばらく私はその文字と、クマとウサギをぼんやり交互に見つめていた。
「――おい」
 そのうちに、段々腹が立ってきた。
「お前は、私の、一体何だ?」
 干渉しない約束だと言ったのは、そもそも誰だったのか?
 お前は私の親か、それとも実は生き別れの兄だったとでも?
 ルームメイトまで束縛して、自分のモラルに染め替えようと言うのか!
 コイツはきっと、何でも束縛したがるのに違いない。
 あの桃色髪と別れたのだって、原因はおおかたそんなところだろう。
 こんなんじゃ誰と付き合ったって、そう長くは続くものか!
 ……そんな罵詈雑言が次から次へと心に浮かび上がった。
 そして紙を睨んでいるうちに、冷蔵庫に対する執着が次第に萎えてきてしまって、いつの間にかいつもの習慣に身を任せる気が失せてしまった。
 何だかもう、バカバカしくなってどうでも良くなってしまい、冷蔵庫に背を向けると、キッチンを出て自分の部屋へと向かう。そして扉を開けると、明かりを点けてコートも脱がずにベッドに身を投げた。大の字になってそのまま天井を仰ぐ。
 自分一人だけの家の中はしんと静まり返って、何の音もない。時々遠くを通る電車の音だけが微かに響いてくる。
 広いベッドに横たわりながら、そう言えば、冷蔵庫に触れずに自分の部屋に辿り着いたのは、どれくらい振りだろう、と思った。あの『悪癖』と罵られた習慣から逃れられなくなったのは、一体いつからだったのか。
 ああ、そうか、あの時からだ。
 あの時から、それは始まったのだ。――まるで押入れの奥の方へと追いやっていたような、今まで触れようともしなかった記憶を引っ張り出す。
「……まず、着替えるか」
 思い出してしまった後、おもむろにむくりと起き上がると、首に巻いたストールを外した。長い間の悪癖から解き放たれたように、それはシュルリと音を立ててベッドの上に落ちた。次にコートを脱いでベッドの端に掛ける。
 何でずっとこんなことが出来なかったのだろう。こんな簡単なことが、出来ずにいたのだろう。
 カーディガンのボタンを外しながらそう思った。――普通の生活というものは、確かこういうものだった気がする。
 その時に、あの冷蔵庫に貼り付いて、気の抜けた笑いを浮かべていたクマとウサギをふっと思い出した。
 そのせいでまた少し、ムカムカとし始めた気分の中で考えた。
 あの忌々しいチラシの紙をどうしてやろうか。私が怒って破り捨てるとでも思っているのだろうが、いやしかし、待て。
 破ってしまえばまるで相手の思う壺にはまるようで、面白く無い。
 嫌味のように、そのまま放置してやろう。
 微かにほくそ笑むと、私はまたキッチンへと向かった。
 そして冷蔵庫の前に立ち、紙を押さえて変わらず気の抜けた笑いを浮かべているクマとウサギをつかんでそこから引き剥がすと、その場所を入れ替えた。
 その微かな抵抗の痕跡に、果たして彼は気付くだろうか、と思った。





 携帯が鳴った。母親からだった。
 ――あなた、ちゃんとやってるの?
 一向に連絡をよこさない娘に、定期的に様子うかがいの電話が入る。
「うん、大丈夫、ちゃんとやってるから」
 偽装結婚をちゃんとやっています、なんて親不孝な娘なのだろうと思った。
 ――今日の晩ご飯は何にしたの?
「今日?今日は……えーと、唐揚げ」
 今まさに、電子レンジに入って温まっている、コンビニの唐揚げ弁当を横目で見ながらそう言った。
 その時ピーッと温めの終了を知らせる電子音が鳴る。
「お父さん、どうしてる?」
 慌てて話題を逸らした。以前まだ実家にいた頃に、料理らしい料理もしたことのなかった娘を、母親は心配しているのだろう。電話を掛けてくるたびに、その日の晩ご飯のメニューを確認してくる。いかにも作れそうな料理をその瞬時に思い起こすのは結構難儀なことだった。
 他愛の無い話しをいくつかした後で、電話を切った。こんな実態を知らない親に対する不義理な気持ちが無い訳ではなく、いつも電話を切った後には軽い溜息が漏れる。
 ふと気配に振り向くと、キッチンの入り口に、風呂から上がった彼がいつの間にか立っていた。
 肩に羽織ったバスタオルで髪を拭きながら、黙って冷蔵庫に近付くと、扉を開けて水の入ったペットボトルを取り出した。
 先日扉に貼ってあったあのチラシの裏紙は、出張から帰ったその日のうちに、クマとウサギと共に姿を消していた。
「うちもこの間電話があった」
 冷蔵庫の扉を閉めながら、おもむろにそう言った。
「近いうちに二人で一度遊びに来いってさ。仕事が忙しいから、当分無理だと言っておいた」
 ペットボトルに口をつけながら、続けて言った。
「いろいろと、面倒臭いもんだな」
 同意の意味も含めて、黙ったままただその姿を見ていた。
「へえ、唐揚げ弁当か」
 電子レンジから取り出されたコンビニ弁当を目にして口にした。
 彼の場合、食事はほとんど外食で済ませているらしい。
「あのさ、料理、作れんの?」
 ひょいと私の顔を見た。
「え?」
 突然何を言うのかと思った。
「いや、アレだろ。普通、世間ではダンナの実家に行ったりしたら、嫁って姑と一緒にキッチンに立たなきゃいけないんじゃないのか?」
 ギョッとなった。大体偽装が前提だったから、今までそんなことを考えたこともなかった。
「出来るだけ忙しいとか体調が悪いとか言って誤魔化すけど、いつまでもそういうわけにはいかないからな」
 何とか怪しまれない程度にはしとけよ――そう言うと、ペットボトルを持ってキッチンを出かかった。そして何を思ったのか急に振り向くと、「へえ」と一人合点がいったような声を出して、それからキッチンを出て行った。
 多分普通に生活している私が珍しかったのだろう。コンビニ弁当にペットボトルのお茶が、キッチンの台の上に並んでいた。勿論、服は着替えている。
 それにしても――厄介だと思った。
 怪しまれない程度、と言っても料理と言える程の料理を最後にしたのはいつのことだったか。
 偽装と言うからには、装うための努力をしなければならない、と言うとても重大な約束事があることを、すっかり失念していたのだ。
 自由を得るには、まだいろいろと面倒臭いことが多そうだった。
 所詮はそう簡単には手に入らないというところか。
 目の前にある唐揚げ弁当をぼんやりと見つめる。
「――唐揚げって、どうやって作るんだっけ……」
 自由になるために選んだ生活の果てに、今悩んでいるのが唐揚げの作り方だなんて――。
 そんな冴えない思いに、折角温めた弁当の温度が冷めていくのを見ながら、一緒に下がっていく自分のテンションに滅入った春の宵だった。





 休日。
 朝遅めに起きて、リビングにあるテレビを見ながらパンをかじる。
 朝からご飯だとか卵焼きだとか味噌汁だとか、純日本風の朝ご飯はどうも苦手だった。学生の頃は、それでも母親が作るので、無理に胃に流し込んだものだったが、一人で生活するようになると、すっかりこのスタイルで生きるようになった。
 バターをたっぷり付けた食パンを、焼かずにそのまま食べる。コーヒーの匂いに次第に目が醒めていく。
 休日の、こんなのんびりと静かな時間が好きだった。
 テレビでは、最近流行のバラエティ−とニュースを掛け合わせたような番組をやっていて、お笑いタレントが冗談交じりに政治を論じたりしている。平和な国だ、と思った。
 しばらくそれを見ていたが、パンを食べ終わるとテレビを消した。
 途端に、部屋が静かになる。
 コーヒーを持って自分の部屋へ戻り、しばらく雑誌をめくったり、DVDの映画を見て過ごした。
 そのうちに、時間は正午を過ぎて、午後になった。
 またリビングでパンをかじって、テレビドラマの再放送を何となく見る。あ、これ、前に見たやつだ、いつやってたんだっけ。そんなことを考える。このドラマの放送をしていた頃、自分は何をしていたのだろう――そんな変なことをいつも考える。
 結局そのまま最後まで見て、次にお笑い番組が始まったのでテレビを消した。
 テーブルにあった新聞を取り上げて開くと、ガサガサと言う音が、静まった部屋に響いた。
 ソファにもたれて、一面ずつ、興味を惹く記事だけを読んでいく。元々文字を読むのはあまり好きではなかった。だから興味のない部分を読むのは苦痛でしかない。
 新聞の半分くらいまで読み進んだ頃、突然キッチンのドアが開いた。リビングと続きになったキッチンに、現れた彼の姿を見て思わず小さく呟く。
「あ、――居たんだ」
 静かだと時々他人の存在を忘れてしまう。同居人がいると言う現実すら、忘れてしまうことがある。
 黒縁の眼鏡を掛けて現れた彼を見て、ああ、仕事をしてたんだなと思った。
 と言うか、彼の休日は、一体いつなのか。それすらも聞いたことがない。
 彼は冷蔵庫に向かうと、いつもの水が入ったペットボトルを取り出した。
 それを見て、彼の冷蔵庫に対する執着も、相当なものだと思った。
 思えばいつも、私と彼の間には、冷蔵庫という存在があるような気がする。
「飲まないのか?」
「あ?」
 唐突な呼びかけに、彼はペットボトルを持ったままこちらを向いた。
 少し疲れたような顔をしていた。
「飲まないのか?アルコール、とか。水しか飲んでるの、見たことない。飲めない、とか?」
 それを聞いてペットボトルの水を一口含んだ。
「いや」
 栓を締めながら、言った。
「家では飲まないことにしている」
「へえ」
 それじゃあ彼は外で飲んでるのか、そう思いながら、聞いた。「何で?」と。
 聞きながら、彼はペットボトルを冷蔵庫にまたしまった。パタリと言う、乾いた音が響いた。
「俺、飲んだらヤリたくなるから」
 冗談とも本気ともつかない口調でそう言った。それは「ご飯が食べたくなるから」と言うのと同じような、まるでさり気ない口調だった。
「そしたらアンタ、困るでしょ?」
 黒縁眼鏡の奥に見える表情は、笑っているようでもあり、笑っていないようでもあった。子供に諭すようなその言い方は、私の何かを酷く疵付けた。
 それがプライドなどと言う大層なものであったのかどうかわからない。
 元々そんなものは持ち合わせていなかったのかも知れない。
 それに何故それが疵付くのかさえわからない。
 それでもその時私はこう言っていた。
「別に。――愛情の伴わないセックスならいくらでもしてやるが」
 冗談とも本気ともつかない口調でそう言った。
「へえ――」

 ――私達の意見は、そうして三度一致をみたのだった。


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