優しさのカケラ人がこの世に生まれ出た時、初めて目にするものは何だろう それは光だと言う人もいれば自分を取り上げた人間の顔だと言う人もいる。 けれど本当は 今まで包み護られていた暖かな体温や安らかな鼓動を伝える優しい絆からは切り離され、独りこの世に投げ出されて自分の力で生きよと命じられるが如く解き放たれる。 それは初めて与えられし洗礼の儀式に似て では、逝く時には その時には何を見るのだろう その最期に何を見、何を思っただろう。 『現実』の果て その果ては分け隔てなく、やがて誰の元にも訪れる。まるで思いも掛けない方向から、そして自ら示唆した方向から。 それは全ての終わりでもあり、また全ての始まりでもある。 永劫に続く営みは絶える事は無く、それは無限に繰り返されるのだと、その時に人は初めて知るのかも知れない 「アスラン。」 天井の模様を映していた視界が突然遮られた。 ソファに沈み込み、頭をその背に預けて心も完全に自分の思考の中に沈み込んでいた。 上から覗き込んだ顔にその名を呼ばれ、やっと思考の底から緩々と覚醒する。 ソファの後ろから覗き込んだその顔は、自分と相対する向きで微笑している。その微笑を囲むように縁取った髪が垂れ下がり、それは手を伸ばすと触れられる距離だった。 いつの間にカガリが入って来たのかも気付かない程に心を外界と遮断していた自分の愚かさに苦笑しながらも、それが他の人間だったなら果たしてどうだっただろうかなどと言う、またしても愚かな思考に囚われて苦笑した。 「皺。」 「…シワ?」 微笑したままでおもむろに伸びてきたカガリの指が眉間を押さえると、ゆっくりとそこを撫でた。 細い指が視界の中で滑らかに動くその仕草と感触に、それはまるで美しいか細い生き物がそこにあって、その場所をヒタリと這っているような恍惚とした感覚に、身震いにも似た痺れを覚えて一瞬身体の芯が熱を帯びたが、それはカガリの口から続いて発せられた言葉によってすぐに冷やされた。 「癖が付くと皺が増えるぞ。」 そう言うと、官能的な痺れを与え続けた細い生き物はそこから逃れて行った。 「口、開けてみろ。」 「え?」 「いいから、ほら。」 言われるままに口を開けると、指ごと中に突っ込まれた。 途端に、ほろ苦い香りと甘酸っぱい柑橘系の香りが舌の上に広がった。 「あんまり考え過ぎると体に良くないぞ。」 ほろ苦いビターの香りと爽やかなオレンジの香りが口一杯に広がり、それが一切れのチョコレートによるものだと言う事にやっと気付いた頃には、カガリの姿は既にドアの向こうに消えようとしていた。 「じゃあ行って来る。」 そう言うとふとまた振り向いた。 そして目を細めると、ただ微笑した。 再び目に映る天井の模様に意味も無く何かの形に似ていると思ったりしてみる。 口一杯に融けたほろ苦さとオレンジの鮮やかな香り。 けれどそこにさり気なく広がって行くのは微かに匂い立つ、甘い香り。 そのさり気ない甘さと言うものに本当は、一番参るのだと言う事を知っているのかいないのか。 目元が緩んで思わず微笑した。 その弾みに天井の模様が次第にぼやけて行き、何に似ていたのかが結局思い出せなくなった。 微かに甘い。 それは今日と言う日に堪らなく、泣けるほどに甘かった。 <06/02/12> これがバレンタインの話だとは、口が裂けても……。 時間軸・場所等はご想像のままに。 因みにオレンジ風味のビターチョコレートは爽やかなお味で結構美味しいです。 |