羽 化激しく叩きつける雨音に目が醒めた。 暗闇の中、ぼんやりと見える部屋の景色の中で、ある一点だけが見慣れたいつもの部屋では無い事に気付く。 窓際の丈のあるカーテン。 何かを包んでいるかのように、白いふっくらとしたシルエットでそれだけが闇に紛れずに奇妙に浮かび上がっていた。 まるで蛹(さなぎ)のように。 アスランはゆっくりと身を起すと、その白い蛹に近付いて行き、触れようかどうしようかと迷った後、 「カガリ。」 と名前だけを呼んでみた。 その声は闇の中で、浮かぶ呪文のように響いた後、雨音に掻き消されて行く。 「……。」 白い殻は微かに身動ぎして、やがてゆっくりとその隙間から、ぼんやりと半顔だけが覗く。 その右側の顔は、物思いに耽っていたかのように、心がここには無かった。 そう、見えただけかも知れない。 人間の顔の右側は、嘘だと聞いたことがある。 隠された、左側の本心。 その顔が今何を物語っているのか、アスランは手を伸ばして白い殻を剥いでみたい衝動に駆られたが、右側の瞳のその空ろさに、そんな聖域を犯すような行為は躊躇われた。 「カガリ?」 もう一度、優しい声音で呼んでみると、今度は瞳がゆっくりと反応した。 徐々に灯が点る蝋燭のように、魂が融けだした人形のように。 「アス…ラン。」 「眠れないのか。」 そうアスランが訊ねると、少しだけ瞳が笑った。 「雨を、見ていただけだ。」 闇に降る雨など見える筈も無い、そう思いながらも、 「そうか。」 とアスランは答える。 見えないものが見える、と言うその心境の答えを、アスランは忙しく心の中で思い巡らせてみたが、結局答えは見つからず、もしかして本当にカガリには見えていたのかもしれない、とそう思った。 先程から何度も触れようとして躊躇われるのは、まるでその身を護っているかのように思われる、その真っ白な穢れを知らぬ蛹の殻のようなカーテンのせいだった。 それはクルリとカガリを包み込むように覆い隠す。 触れてはならぬ、と無言の声が聞こえたような気がした。 昨夜、その蛹の殻を無理矢理に剥いだ。 まだ固い蛹だった。 その殻を半ば強引に裂いた。 無理矢理殻を破られた蛹の翅(はね)はギュッと縮んだまま開かない。 その白い布地は、それを物語るかのように、再びカガリをひっそりと包み込んだ殻のように思われた。 「カガリ。」 今度は少し戸惑いながら呼んでみる。 暫く躊躇った後、 「触れてもいい?」 そう聞くと、コクリと頷いた。 右手でそっと布に触れると、緩やかな体の線を示すその感触が手の平一杯に広がった。 柔らかい。 その感触に安堵したアスランは、ゆっくりと手を回して背に滑らせた後、左手で体を覆っているその殻をそっと捲るように剥いで行く。 少しずつ、殻が破れないようにでもしているかの如く、ゆっくりと優しい仕草で解いて行く。 カガリは伏目がちに、黙って身動きしない。 そして、最後の体を覆う一枚になった時、 「ダメだ。」 と手を伸ばしてアスランの手を咄嗟に押さえ付けた。 肩から上が顕になり、ふっくらとした胸の丘陵が布に隠される。 「怖い?」 アスランが静かにそう聞くと、黙って俯いた。 「…ごめん。」 沈痛な響きでアスランがそう言うと、カガリは瞳を上げた。 左の瞳から涙が落ちた。 「違う…。」 首を左右に振った。 「そうじゃない。そうじゃない、でも。」 涙の入り混じった声でそう答えると、アスランの胸に額を押し当てた。 「よく、わからないんだ…。」 アスランは黙って左手でカガリの髪を暫く梳いていたが、やがて動かないカガリの耳元で 「剥ぐよ…?」 と囁くように言うと、黙って頷いた。 最後の一枚を、薄皮を剥ぐように丁寧にゆっくりと脱がせて行く。 闇に白く透き通る、翅のような体が浮き上がった。 まだ生まれたばかりで、触れると壊れそうだ、と思った。 ゆっくりと傷付けないように、体に触れる。 触れると、ピクリ、と震えるように反応した。 そして黙ってアスランにしがみついたカガリをそっと抱き上げると、褥に向かって静かに歩き出した。 首に腕を絡めたまま、カガリは顔をアスランの肩口に埋めている。 そっとカガリをその柔らかな褥の上に降ろしたアスランは、首に絡まった腕と縮まった体を優しく解いて行く。 羞恥で俯く額に洗礼のように口付けると、解いた手を自分の両手に絡ませて、濡れた翅を伸ばして行くように、ゆっくりと左右に開いて横たえる。 微かに震えるカガリの体が、今にも翅を広げようとしている可憐な蝶のように思われた。 「翅…。」 アスランがそう言うのを聞いて、カガリが瞳を上げる。 「は…ね?」 「いや、何でも無い。」 アスランはそう言って微笑むと、今度はカガリの唇に永い洗礼の痕を残して、殻を脱いだばかりのその柔らかな透き通った素肌に、そっと感嘆の想いを抱いて打ち震えながら、ゆっくりと、いとおしむように触れていく。 竦んでいた翅がゆっくりと広がって行くように、戦きつつ少しずつ自分を開いて行くカガリを見ながら、漸く今蛹が羽化したのだ、とアスランはその時を知った。 夜半の雨は緩んで音も無く、その気配を消し去ってそっと静かに包むように降り続いていた。 <2005.06.04.> |