救 い の 手







『 時々遠くをうつろうような空虚な瞳でその手の内を見つめては、じっと彼は瞼を閉じる。 』







静寂な光が世界に降り注ぐまるで平和に思われる午後の一刻。
光が君臨する世界には何も穢れたものさえないもののように思われる。
がそれはただの幻想でしかない。
それを身を以って知っている人間には、そんな光こそが自分を蝕む浄化の光のように思われてならない。

「穢れの手」

ふと、そんな呟きが聞こえて後ろを振り返ると、また自分の手の内を見つめたままソファに凭れて空ろな表情をした彼の姿が目に映った。そして、ゆっくりとその手を窓から射し込んで来る光にかざすと、また暫く陽に透かしてでもいるかのようにじっと見つめている。


周りが平穏になればなるほどに(例えそれが仮初の平和であろうとも)それと対比するかのように、彼の心の闇は徐々にそして確実に、その体を魂を苛んでは蝕んで行く。人は自分の信念の元に、大儀の元に、ただひたすら我武者羅に突っ走っている時には自分が何者であるかなどとは露程にも思いはしない。けれど、ふと立ち止まってしまった時、自分が何者であったかを思い出す空間を与えられてしまった時、それは、その者にとってまるで裁きを受ける罪人の如く、犯した諸々の事象が空虚な現実となって、寄せては返す大波のようにひとつ残らず業を放った者を目指し、そこへと還ってくる。
そして示されたそれらを目の当たりにし、苦悩と葛藤の末にやがてその真実を真摯に受け入れようとした時、人は頭を垂れてただ、じっと瞼を閉じる。
それは、まるで祈りの姿にも似て    


いつまでも陽に透かした手の平を見つめている姿が贖罪を求める咎人のように思われて、そんな姿が痛々しいなどとは表情にも出さぬままに名を呼んでみる。

「アスラン。」

こちらに向けられた顔の半分は逆光で見えず、それはまるで光に溶けているようだった。
彼の姿を縁取る光の輪郭がその体を触媒にして、やがて別のものへと変化しようとしているように思われた。
もうこれ以上は放ってはおけなかった。
側に座ると、かざしている手にそっと触れ、自分の胸の前に持ってきて、両手で包み込んだ。
彼は無表情のままただ視線だけが手を追う。
包み込んだ手をゆっくりと開き、自分の頬に暫し押し当てた後、その手の平に自分を記すように唇を押し当てる。押し当てながら、手の平から手の甲へ、ゆったりと唇を移動させると、指の一本ずつを穢れを拭うように、爪の先から間接へ、そして間接から付け根へと、その全てをなぞるように這い巡らせて行く。
それは決して禊(みそぎ)などと言う、奢った行為などでは無く、ただ愛しさ故の、ただそれだけによる、衝動的行為だった。
彼は薄く唇を開けて徐々に目を見開いてそれを見ていたが、やがて苦悶の表情をその熔けかけた顔に浮かべる。

「やめてくれ。」

そして顔をつと逸らす。しかし手は振り払おうとはしない。
僅かに、震えが腕を通して伝わってきて、その隠された本心がその手の上に全て顕になっているのに、それなのに、まだ彼は抗おうとしているのだ。
    振り払えはしない。
そんな事すらもうわかっている筈なのに。
それでも   。そんな姿にまたどうにも表しようのない感情と、いとおしさと呼ぶべき衝動が渦巻いて、構わずに、殊更に、手を、指を、ひたすらに唇を以って獲りつかれんばかりに愛執し続ける。

「カ……。」

そう開きかけた口を、彼はまた噤んだ。
噤んだまま、自分の手を指を弄ぶ口元に吸い寄せられるように、視線が釘付けられて行く。
やがて、その瞳は空虚から震撼とした戦きへ、そしてそれから切なさの入り混じった恍惚とした光へと、その色彩が静かに移り変わっていく。それと呼応するかのように、腕のぎこちない震えが次第に消えて、緊張から解かれてくたりと放心した生き物のようにその手の力が抜けていく。
ゆっくりと静かに吐き出される呼吸の音が空気を通して辺りに伝わって行く。
ふと彼のもう一方の手が顔に近付いてきて前髪に触れると、指を広げて髪を掻き上げるようにゆっくりと撫で付ける。
何度も何度も繰り返される。
見上げると、微かに泣いているかのような潤んだ緑の瞳が見下ろしていた。
光は緩やかになってその頬に落ち、濡れた睫の珠を薄っすらと照らし出していた。

「例えどんな手でも、私には大事だ。」

そう言ってもう一度その手に頬ずると、その手は今度は自らの意志で、頬を撫で、そして指で唇を辿る。

「穢してしまった。」

今まで触れられていた唇に、その指の背で何度も柔らかく拭うようにそっと触れる。

「贖いを。」

そう言うとまるで神聖な光に近付くように、恐れ戦きながら許しを請う罪人のようなその彼の呼吸を間近に感じてゆっくりと瞳を閉じる。

罪と救いの手。

その手が今度は両方の頬に触れると、柔らかな花を抱くようにそっと手の平で包み込む。

そうして、何度感じたかわからないほどの堪らない甘い疼きと眩暈と、そしてその全ての穢れや罪と同じだけの救いを与えてくれるその手の中で、じっと呼吸を止めて、唇に落ちる烙印を待つ。




光は、遠のいて彼方の雲の間で細い瀑布となって地上に降り注いでいた。


<2005.06.18>