瞑  り   ―ねむり―







部屋に入って来るなり鷹揚に脚を投げ出して、両腕を広げて皮のソファに沈み込んだ。
そのいつもとは明らかに違う様子に
「どうした?」
と少し離れて向かい合う席でカガリがそう訊ねると
「暫く放っておいてくれ。」
そんな返答をしたかと思うと、アスランはそのまま瞳を覆う瞼を閉じた。
    ああ、またか     そう察してカガリは黙って視線をまた読みかけの書類に戻す。
時々何かが彼の中で酷く身悶えては傷付ける、そう気付いてはいたが、しかしそれは自分ではどうにも救ってやる事の出来ぬ心の奥深い淵なのだ。ただの慰めは更に悪戯に傷を広げて行くだけだろう。そう知っているからこそ、ただ側にいる事が、ただ見ている事が、ただ黙っている事が、今の自分に出来る、唯一つのそして精一杯の優しさなのだとカガリは思う。
言われた通りに何も無かったかのように、ただそのままに時間を放置する。
暫くそれぞれの世界にそれぞれが没頭するかのような何の音も無いただ森閑とした空間が、ひっそりと飾られたまるで自己主張の無い忘れ去られた置物のように調和を乱す事無くただそこに存在していた。
時の経過を告げるのは翳ったりまた射し込んだりする陽の光だけで、その他には凡そ何もその空間に介入するものは無い。
ふと気付くと、規則正しい寝息の呼吸の音が微かに聞こえてきて、カガリは口元に笑みを浮かべると、頬杖をついてまた自分の世界へと踵を返して帰って行く。



影が、      動く。



窓枠の形をそのままに切り取り尚且つやや輪郭を暈した仄暗い影が、いつの間にか投げ出された脚の上へと忍び寄っていた。
長い夢物語から醒めたように、カガリの視線が朧気に、徐々にその脚を伝わって下半身から上半身へと這い登って行く。
やがて、ハッと一瞬空間の泡が弾けた。
覚醒しきっていないかのような、半眼だけを開いたままの瞳に思わず往き会った。
「……いつから……?」
頬杖を外してただそれだけを問いかけた。
返答が無い。
開かれた半分の瞳の中の透き通った緑色の光が、もうそこまで来ている陽の光を受けて、一層透き通って見える。
全ての瞼が開かれたなら、その美しさは恐らくは切なくて儚すぎる、蛍の命の光にも似た輝きかも知れない。
半分でもこんなに美しいのだ。半分だからこそ、凝視していられるのだ。
    全てを開く必要は無い。
カガリがそんな酩酊とした、独善的な想いの中に囚われているうちにも、やはりアスランの瞳は瞬きするだけで、視線は一点に固定されたままだった。
投げ出した脚も、広げられた腕もまるでそのままに。
無言で、暫しの間視線だけが交錯していた。
影がまた這い登って行く。
半眼の中の瞳は、更に澄んだ色を増して美しい。
「アスラン。」
再びカガリが沈黙を破った。
「そんなに見ていると穴が開くぞ。」
その言葉に、漸くアスランは現に戻ったように微笑して返答する。投げ出した脚のように鷹揚に、しかし、掠れた声で。
「構わないさ。」
その答えに、困った駄々っ子を相手にするような苦笑をその顔に浮かべたカガリは再びまた視線を手元の書類の束に落とす。
そして暫くしてから、呟くような声が漏れるのを聞いた。
「気にしないでくれ……それに眼に見えるものだけを見ているわけじゃ無い……。」
声は、こう付け加えられた。

「この場所は俺にとってはそういう場所なのだから       。」

そう告げ終わると、また開いていた半分の美しい瞳を静かに瞼の中に隠した。
暫くそれは、開かれる事は無いだろう。
それとカガリには知れた。

瞑りは深い   。が、今はその瞑りだけが、その深遠とした淵に墜ちた者を救うことが出来る癒しなのだ、と。

まるで十字架のような窓枠の影がその端正な顔の上にやがて降り掛かろうとするのを、カガリは頬杖をついたまま、ただ静かに過ぎ行こうとしている時と共に慈愛に満ちた深い眼差しで、ただ、そっと見守っていた。


<2005.06.26>