眠 り
光は希望であり、そして闇は絶望である。
そう人は言う。
けれど、今の私には闇が安らぎであり、そして全てのものから包み隠して見逃してくれる、優しい帷(とばり)。
「強過ぎる光は時として毒だ。」
そういつか彼が言った事がある。
私達は闇に愛されその羽の下で眠りし者。
今はまだ、静かに時を重ねながら柔らかなその羽毛の下で胎児のように体を丸めて眠るのだ。
掻き毟った疵痕も、流れ出る血もそのままに。
けれど時としてその闇は、優しくも残酷な鏡となって忠実に、内なる真の自分をその中に映し出す。
昼間の光が遮っていた、まだ血の滲む疵痕も封じ込めていた自分の声もそのままに。
「迷いは無いのか?」
そんな言葉が覆い尽くしては、まんじりとも出来ず、身動きも出来ず、やがて白み始めた光に追われて闇は去る。
優しくも残酷な闇、されど、残酷で優しい闇。
その闇の下で、疵付いてはまた、その疵を闇の下で癒す。
『人の心を司る』
それが、闇の正体なのだという事を、私はまだ知らずにいた。
「眠りなさい。」
そう言うと、窓の分厚い布のカーテンをシャッと音をたてて閉めた。
光線を遮られた部屋の中は、たちどころに薄い闇の世界に覆われる。
光の滅亡と、一瞬の暗転。
闇に瞳が慣れるまでの時間が、酷く長いように思われた。
「寝ていないのだろう。」
そう言うと彼は、椅子に座る私の傍らに近付いて、目の前の机に広がった書類の山やノートパソコンを有無を言わさず片付け始めた。
「そんな頭で何を考えてもまともな答えは出ないぞ。」
見抜かれていた言葉に、ズシリと堪えるものがあった。
「そんなに酷い顔をしていたか?」
そう問いかけると、
「いや。」
そう言って、少し笑った。
そして、ただ、そう感じただけだ、と付け加えた。
その言葉に、胸の奥から溢れてくる暖かい塊を感じながら、それが一層いつもより甘く感じられるのは多分、分厚い帷で仕切られた、薄く不明瞭なそれでいて心に染み入ってくるようなこの闇のせいだ、と思った。
少しくらいの我侭な甘えですら、包み隠してくれるような気がして側にあるその服の裾を掴んだ。
そして背中にこつん、と頭を凭せ掛けた。
暫くそうして甘えていたら、無言で振り向いて少しだけ抱擁してくれた。
そうして額と頬に絡みついた髪を指で拭うように払い退けると、
「さあ、眠りなさい。側にいるから。」
とまるで催眠術にでもかけるかのようなゆっくりとした言葉を紡ぐと、体を離した。
頷いて椅子の背もたれ深く体を預けると、天井に潜んでいた闇が降りて来るのが見えた。
「優しくて残酷で、それでいて残酷で優しいものだな…闇は。」
独り言のようにそう呟くと、
「それもまた、人にとっては必要なんだ。」
薄闇の中、そう答えた彼の瞳はとても静かで、波立つ事の無い山奥の更に奥深くにしんと水を湛えた湖面の静寂さを思わせるようなそんな刹那な表情に、ふと胸を衝かれた。
いつの間にこんなに大人びたのだろう。
白日の光の下では隠されていた真実が、今闇の中でやっとその姿を晒しだしたもののように思われた。
彼もまた、眠れぬ闇の羽の下で何度も疵付ける残酷な声を聞いては身動きも出来ずに、ずっと一夜を過ごしていたに違いない。
掻き毟るような想いと、耳を覆いたくなるような言葉に苛まれながら、何度も朝を迎えていたに違いない。
そう知った瞬間に、いとおしさ故に堪らずに縋り付きたいと思った。
けれど、今は彼がそれを許さないだろう。
私に要求されているのは、ただ眠る事。
それが他ならぬ、彼自身をも癒す事に繋がるのならば。
……闇が優しいうちに、ただ私達をその羽でそっと包んでくれるうちに 。
彼が創り出した闇はただ優しさと安らぎだけに満ちてそして仄甘く、それに勝る睡眠薬など何も無い。
途端に意識が墜ち始めた。
「アスラン…今度の週末に……。」
『添い寝をして欲しい』
そう呟いたつもりが、最後まで言えたのかどうかは憶えてはいない。
そんな誘惑的な、しかし子供染みた甘えた言葉が思わず口から漏れ出したのは、多分、この優し過ぎる闇のせいなのだ。
ただ側にいて欲しい。
そうすれば、ただ残酷で優しいだけのそれは、溶けかかった途方も無い甘さの入り混じった闇へと変わるだろう。
『残酷で優しくてそして途法も無く甘い闇』
それはなんて甘美な名前なのだろう。
その言葉だけで酔いしれそうになる程の響きと余韻に浸りながら、闇の眩惑に誘われて安らいだ眠りへと導かれて行った。
<05.07.03>
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