「そちらの方は…?」
と尋ねられると、決まって
「アレックス・ディノです。」
と答える。
今ではそれが、彼の当たり前の日常になった   

「アスラン。」
とカガリは呼ぶ。
アスハ家ではもう「アスラン」で通してしまっているので、屋敷中の者がその事実を知っているし、官邸でも近しい者の前では平然とその名で呼ぶ。なので、「アスラン・ザラ」の名とその素性は、一部の者には「公然の秘密」というかたちになってしまっているのだが、さりとて公の場ではそうもいかず、「アレックス・ディノ」という、別の人間を演じる事になる。
やっと最近、その名で呼ばれる事にも慣れて来たのだが、しかし当のカガリがなかなか「アレックス」とは呼ばない。
いや、「呼べない」のが本当のところかもしれない。
公の、どうしても「アレックス」という名前を口にしなければならない時には、まるで子供が慣れない発音をするかのように、口篭もりながら「アレックス」と呼ぶ。その響きはどこか少しよそよそしい。
仕方の無い事だとはわかっていても、本当の名で呼べない事が、こんなにも切なく苦しい事だとは、思いもかけなかった。
「名」というものが持つその意味の深さと、そこに背負わされた運命が、今更ながらに2人の心に波紋を投げかけて行く。

「アスラン。」
とカガリは言いかけて、
「アレックス。」
と言い直した。
「はい。」
とアレックス…アスランは答えてカガリの側に歩み寄る。
「帰りの車をまわしておいてくれないか。」
「わかりました。」
そう答えて、アスランは部屋を出た。
カガリは国家元首として、今とある孤児院を慰問していた。
先の大戦で、親を失った子供達。
自らも父親を失ったカガリは、代表着任早々に、孤児救済の為の事業に着手していた。
まず、人民救済を優先…何よりも、一番の犠牲となった子供達。
親を失い、住む家も失い、守ってくれる優しい腕も行く当ても無く、泣きながら彷徨っていた何百人という子供達。
そんな弱い命を守る為に、自分は代表首長の座に着き、何を成すべきか、何をどうしていくのか、日々、自問自答している。
まだ少女の名残があるその面立ちに、似つかわしくない代表の座だが、しかし持って生まれた気質は時として、その華奢な外見からは想像もつかない程、激しい確固たる意志で他を圧倒する。
そしてそれは、宰相・首長達の意見を退け、この戦災孤児問題だけはカガリの意志を貫き通した。
今も時々、こうして孤児達を慰問してまわるのがカガリの公務のひとつになっている。

慰問を終え、カガリはアスランがまわした車に乗り込んだ。
車は、運転席と後部座席が壁で仕切られており、話し声は運転席には全く聞こえない。
その後部座席で、アスランの隣に座ると、カガリはやっと
「アスラン。」
と呼んだ。
そして、深い溜息を吐き出すと、
「ちょっと、辛いな…。」
とポツリと言った。
「カガリ?」
アスランはカガリを見やる。
カガリは何かに耐えるように、ギュッと手を握り締めている。
そして、瞳は今にも涙が溢れそうになるのを堪えているように見えた。
やがて、唇から搾り出すような声が洩れる。
「…そうじゃない…。」
「カガリ?」
「…そうじゃないんだ…。」
カガリの瞳からポロポロと大粒の雫が零れ落ちた。
「どうした?」
驚いたアスランがカガリの肩に手を置いて顔を覗き込む。
「何があった?」
カガリは暫く黙ると、やがて口を開いた。
「…さっき、ある子供に言われたんだ。゛アスハの娘゛だって。」
カガリの声は震えていた。
「゛戦争を起こしたアスハの娘だ゛って……。」
「カガリ…。」
「わかってはいる…わかってはいるけど…でも…。」
アスランは黙ってカガリの震える肩をそっと引寄せると、子供をあやすように優しく背を撫でた。
大人がそう教えれば、無垢な子供は信じてしまうだろう。
子供には大人の複雑な事情など理解できるはずもない。
ましてや、その゛真理゛など   
わかるのはただ、そこにある゛事実゛だけだ。
しかし時として、それは非常に残酷な、剥き出しの刃となる。
「カガリ。」
とアスランは静かに呼ぶ。
「…わかっているんだろう?」
背を撫で続けながら、優しい声で言い聞かせるように言った。
「゛アスハ゛という君のその名が背負わなければならないもの…」
漸く嗚咽に耐えていたカガリは、黙って頷いた。
それぞの「名」は、それがどんなに゛正義゛だと主張しようとも、受け止める側の人間の感情に支配されて捻じ曲げられて行く。
そしてそれは決して元に戻す事は出来ないのかもしれない。
だが    
アスランはカガリに言った言葉を心の中で反芻する。
「ザラ」と言う「名」。
その名は、今は「禁忌」にも等しい。
だが、いつまでも、その「名」と対峙せずに背を向けつづける訳にはいかない。
その名を捨てない限り、いや、例え捨てたとしても、自分に染み付いたその「名」は、死ぬまで影のように付き纏うだろう。
その「名」と向き合わなければならないのは、それぞれに背負わされた゛宿命゛   
「俺も…同じだよ…。」
とアスランは言った。
カガリはハッとする。
「゛アスラン・ザラ゛の名からずっと背を向けつづける訳にはいかないんだ…。」
カガリに、というよりも、自分に言い聞かせるようにアスランは言う。
「アスラン…。」
しばらく2人は黙ったまま寄り添っていた。
やがてカガリが泣き濡れた顔を上げて、静かに言った。
「お前は゛アスラン・ザラ゛で、私は゛カガリ・ユラ・アスハ゛なんだな。」
「ああ。」
とアスランも答える。
「お前が、゛アスラン・ザラ゛で良かった。」
とカガリは涙で光る瞳で微笑んだ。
「カガリ…。」
アスランは、再びカガリを両手で今度はしっかりと抱きしめる。
「俺も……君が゛カガリ・ユラ・アスハ゛で良かった。」

それは2人にしか分かち合えない想い      

名は、人の運命までも左右して行く。


そして、その数ヶ月後    
「アレックス・ディノ」は、ザフトの゛FAITH゛「アスラン・ザラ」として、再びその宿命を背負う事になる。


<2005.01.23>