甘受の疵痕
鏡の中の自分を見ながら、溜息を一つ 。
好きでも無い相手の為の装いほど、虚しいものは無い。
いつもの事とはいえ、やはり、溜息を吐かずにはいられない…。
着馴れない、襟ぐりの開いた色鮮やかなエメラルドグリーンのイブニングドレスに身を包んだ自分の姿を眺めながら、カガリはそう思う。
首には同じ色の宝石をあしらった、品の良いデザインの首飾りが掛かっていて、その真っ白な胸元を飾っている。
そしてノースリーブの肩からは、白い華奢な腕がスラリと伸びて、顕にその姿を晒していた。
これがアイツの為だったら……などという自分の思いにふいに行き当たった時、カガリは思わず、自分の中にいつの間にか存在する、『女』というどうしようもなく愚かに思われるその性に苦笑する。
いつの間に自分はこんなに『女』になってしまったのだろう
女になると言う事は、身も心も重くなると言う事なのだ、とカガリはそう思う。
だが、女に「なった」のでは無く、本当は女に「変えられて」いっているのだという事に、カガリはまだ気付いてはいない。
そしてその当事者は今、黙したままじっと階下で他人の為に装う恋人の姿を待つ。
「お嬢様、お支度はもうおよろしいのですか?」
マーナが部屋に入ってきて、鏡の前に座るカガリに声を掛ける。
「早くなさらないと、セイラン家の晩餐会に間に合いませんよ。」
「わかっている。」
カガリはまた溜息を吐くと、重い体を漸く動かして立ち上がった。
そんなカガリの心中を慮ってか、マーナは、
「お嬢様…。」
と何か言いた気に、心配そうにカガリを見たが、
「じゃあ、行って来る。」
と努めて明るくカガリは答えると、マーナをそこに残したまま部屋を出て行った。
後に残されたマーナは、カガリが座っていた鏡台に並べられた化粧品や香水瓶の数々を見つめながら、それらを身に付けていた時のカガリの心境を推し量って、深々と溜息を吐いた。
「これがあの方の為だったら、さぞお幸せだろうに…。」
そうして、すっかり女らしく綺麗になっていく娘を想う母親のように、その目を細めた。
裾の長いドレスの衣擦れの音をたてながら廊下を進むと、やがて左手に階下へと続く階段が現れる。
その階段の上に立って下を見降ろすと、下から見上げて来る一つの瞳にぶつかった。
階段の手摺にもたれ、腕を組んだ姿でただ黙って見上げている。
その顔に表情は読み取れないが、ただ瞳の色だけは強かった。
暫く無言のまま、お互いの視線が階段を挟んで絡み合う。
やがて、カガリはゆっくりと階段を降りながら、アスランに向かって声を掛ける。
「行こうか、アスラン。」
アスランは無言で答えたが、カガリが階段を降りきったところで、グイッとその腕を引っ張った。
「手袋は?」
素肌に伝わる手の温もりを感じながらカガリは
「ああ、面倒だから着けずに持っていく。」
そう言うと、手に持った白い手袋をアスランに示して見せた。
それは肘上の丈まである、イブニング用の手袋だった。
「…手袋は夜の正装の決まり事だろう?」
「いいじゃないか、別に。」
顔をしかめてアスランの腕を払い、歩きかけたカガリの背中に、アスランの言葉が投げ掛けられる。
「そんな生白い腕を、人前で晒すな。」
カガリは一瞬立ち止まったが、
「嫌いなんだ、手袋。」
そう言うと、また歩き出す。
アスランの気持ちは痛いほど解ってはいたが、今はただ、それをどうしてやる事も出来ない。
ただ黙って見交わす瞳の中に、伝わってくる楔の付いた重い心も、繋ぎとめようとする強い想いも、ただ、今はひっそりとその身に受け止める事しか出来ないと 。
カガリはそう思っていた。
車はセイラン家へ向かって夜の闇を突っ切っていく。
「少々遅れた。悪いが急いでくれ。」
カガリが運転手にそう告げる。
アスランはその横で黙ってそれを聞いている。
長い沈黙が車中を支配した。
お互いがただ黙って外を流れる街灯の灯りに目を向けている。
二人きりならもっと伝えたい事も伝えられただろう。
でも二人きりは、もっと苦しい。
今は何も言えない。
言えないが故の苦しさで、また、黙り込む。
そうして景色と共に、時間だけが過ぎて行く。
伝えたい想いをそれぞれの胸中に抱えたまま、ただ車だけが闇の中を疾走して行く。
セイラン家が近付いて来た時、おもむろに、カガリがアスランに向かって口を開いた。
「アレックス、お前は先に帰ってろ。」
アスランが無言で抗う視線をカガリに向ける。
「帰りはセイラン家の人間に送ってもらうから、いい。」
また、無言で絡み合う視線。
「……わかりました。」
アスランは視線をカガリに合わせたまま、そう答える。
その視線を受け流すかのように、カガリはまた視線を外に向ける。
しかしアスランの瞳はカガリを捕らえたまま、そこから動かなかった。
やがて、車はセイラン家の門をくぐると、屋敷の前で止まる。
そしてカガリが車を降りようとしたその時、ふいにその右手をアスランが掴んだ。
「アスハ代表。」
カガリが振り返るとアスランの強い光を帯びた瞳にはっしとぶつかる。
「お忘れですよ。」
そう言うと、アスランは白い手袋を持ったもう片方の手を差し出した。
暫くカガリは黙っていたが、
「ああ、すまない、アスラン。」
そう言うと、視線を合わせたまま、その手袋を受け取った。
そうして、ゆっくりと右手をアスランの拘束から解くと、くるりと背を向けて車を降りる。
そして、セイラン家の玄関口で使用人がその重厚な扉を開けて招き入れようとするとカガリは、
「あ、ちょっと待ってくれ。今手袋を嵌めるから。」
そう言うと、自分の右の手を見つめながら、
「……しょうの無いヤツ……。」
と言ってやんわりと笑う。
その視線の先には、右手の甲の親指の付け根辺りにハッキリと残された、アスランの深い爪痕があった。
<2005.04.10>
カガリ…なんて大人なんだ…
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