避暑地の出来事







指で触れると丸い波紋が生まれる。
何度も何度も繰り返し触れると、丸い水紋が幾重にも生まれては広がって行き、やがては静かな湖面の碧い瞳の中へと還って行く。
朝靄の白い流れがその湖面を覆い隠すかと思えば、時々風がやって来ては、はらりとマントを捲るような仕草で、ハッとする深い碧い色を覗かせてはまた靄が立ち籠める。
そんな早朝の幻想的でいてしかし何か心に凛と響くようなこの厳粛な一枚の絵が、カガリは好きだった。
癒し      と言うものでも無く、それはどちらかと言うと、自分を律するものに近いのかもしれない。
歪んでいたものをリセットして行く。
      原点回帰。
そんな言葉がふと心をよぎる。
澱み、沈んでいたものが清められて行く。
そんな一時が、堪らなくいとおしいと思える。





筈、なのだ、が       。しかし。





「黙ってコテージを出られては困るのですが。」

靄の後ろで聞き慣れた声がした。
振り返らずとも、それが誰だかは知っている。

「バカンス中とは言え、無謀な単独行動は謹んでいただきたい。」
如何にも護衛らしいと思えるやたらと丁寧な言葉遣いも、そしてそれが物語る、戒めを含んだ言葉の意味も、しかし、その声が本当は本気でなど怒ってはいないという事を、カガリにはわかっていた。
そして今、その声の主が一体どんな表情で、どんな眼差しで、自分を見ているのかでさえ、手に取るようにわかる。
わかるからこそ、面白くは無い。
「……何だ、『これ』、は。」
「何だ、とは?」
わかっていながらそう問い返す彼のその心中が、表情そのままに、まざまざと、ありありとまるで目の前に並べたてられているかのように思い浮かぶので、益々それがカガリの癪に障る。
しかも、その声は余裕に満ちて、まるでその場を楽しんでいるかのようにさえ思われた。
     悔しい
「……これで満足か?」
そう問いかけながらゆっくりとカガリが振り返ると、白い靄の向こう側で、想像そのままの微笑と眼差しが、木陰から満足げにこちらに向けられていた。
     嵌められた
そんな思いが一気に押し寄せて唇を噛む。
「今朝、私の服を隠したろう。」
恨めしげなその言葉を聞いて、かの護衛は悠然と微笑んだ。
「人聞きの悪い。取り替えた、と言って貰いたい。」
「こんなピラピラした服はゴメンだと言ったろう。それにこの鍔広の、いかにも避暑地用って感じの帽子もな。」
白い、ほっそりとした二の腕にフワリと掛かるフリルの付いた、甘いシフォンジョーゼットの白いサマードレス。全面に、同じ白い色で刺繍が施してあり、透ける様なその繊細な素材がカガリが動く度にユラユラと揺れた。それはあたかもたった今白い靄の中から生まれたもののように、辺りの空気と調和している。
その演出効果にまた、内心密やかに、彼は微笑んだ。
「演出も大事だ、といつも言っている…。」
そう諭すように言い掛ける護衛の横を擦り抜けるように、白いドレスの裾を揺らせながら行き過ぎようとしたカガリの手首を、おもむろに彼は掴んだ。
「聞き分けの無い。」
半ば呆れたような声でそう言うと、グイッとその体を自分の方へ引っ張った。
「いつも国民の目が自分に注がれている事を、君はもっと意識すべきだ。」
思わずつんのめって彼の肩に当たった帽子の鍔が、その弾みで上へ押し上げられた。
脱げかけたそれを掴んで外した彼の手は、それを持ったままカガリの背後へと移動し、背を滑り、腰の括れで止まり、それは捕らえた獲物を逃がさない為の檻と化した。
「私は着せ替え人形じゃないぞ。」
もがきながらまるで睨め付けるかのような抵抗を見せるカガリとは裏腹に、彼の瞳は剣呑な輝きを放ち始める。
「そうだな。」
そして微笑は悪戯な笑みへと、次第に変貌を遂げていく。
「だったら俺が困る。」
そう言いつつ、空いたほうの手で、今はまるで無防備となったサラリとした髪に触れては指で梳いていく。
「人形じゃ何も出来ない。」
そこには護衛だった筈の彼の姿は既にもう存在しない。
細められた瞳の奥で、チロリと灯が点る。
「…お前…言動が、一致して無い…ぞ。」
檻の中で、やっと危機的我が身の状況にカガリは気付いたが、時は既に遅かった。
獣の前の小動物のように硬直しながら、儚い最期の抵抗を試みる。
「なあ、その、意識しなきゃいけないんだろう?…国民の目ってのを、さ    。」
       。」
無言の回答と同時に、また濃い朝靄が立ち籠めたかと思うと、忽ちのうちに辺りは白一色の世界に包まれる。
全ては白い檻の中。
外界から閉ざされた、静寂な世界がまたひっそりと訪れる。
静かな碧い湖面が風の撫でるままに身を任せて微かに揺らめいてはまた朝靄の帳の中に消え行くように見えなくなっていくのを、ゆっくりと流れ去る時だけが知っていた。


<2005.08.15>