ヒ ナ ン







 雨が降ってきたので、とはとても都合のいい理由だったのだが、彼の部屋に逃げ込んだ。真夜中の雨は大変冷たいので、と言うのもまた都合のいい理由だった。
 何にしてもとりあえず、「来る?」と言うそのひとことで、彼の部屋にヒナンした。何からヒナンしていたのか、本当のところはわからない。
 声を立てないように部屋の前まで来ると、鍵を取り出してドアを開けている彼の顔を見ていた。ドアが開くと、彼はまた声を立てずに、そぶりで「入って」と示す。
 雨の立てる音がそこにある、二人の気配を消していくのを見ながら、私達は彼の部屋にヒナンし終えた。雨からヒナンしたはずが、反対にその雨に守られたことがおかしかった。ドアが閉まったと同時に少し笑うと、「なにがおかしいの?」と彼は神妙な顔をした。それには答えず、私は慣れた足取りで彼の部屋に入っていった。


 少し濡れてしまったので、とりあえずシャワーを浴びることにした。
 先に私がシャワーを使い、入れ替わって彼が入った。
 上着が乾くまでの間、借りた服がブカブカと空気を孕んで肌に添わない。指の先だけが見えている袖口を上までたくし上げた。肘の少し上で、幾重にも折り重なってそれは止まった。
 ソファーに座って頬杖を付いていると、彼がシャワーを終えて出てきた。手持ち無沙汰でただ座っている私を見ると、「コーヒー飲む?」と聞くので頷いた。世の人々が眠りについている時間に、コーヒーを飲むと言うのも変な感じがした。それでも私は頷いた。何もしないよりは、何かしているほうがいい、と思った。
 乾いたタオルで濡れた髪をわしわしと拭きながら、彼は簡易キッチンでコーヒーを淹れている。紙のフィルターの中に挽いた粉を何杯か放り込み、その上から沸かした湯を注いでいる。コーヒーメーカーは嫌いらしい。いつだったか、コーヒーメーカーを買えばいいのに、と言ったら、「こっちのほうが美味しいから」と彼は自分の腕に絶対の信頼を寄せていた。
 コーヒーの香りというものは、人を寛がせる効果があると言うが、立ち上る匂いが部屋に充満すると、気持ちが落ち着いて少し眠くなった。コーヒー自体は眠気を覚ますものだと言うのに、おかしなものだ。本末転倒と言うやつだと思った。
 そんなことを考えていたら、彼がカップを持ってやって来た。ひとつを私に渡すと、もうひとつは自分で啜った。隣に座るのかと思えば、ソファーには座らずに、足を投げ出して床に座ってソファーに頭を凭せ掛けた。
 そのまましばらく二人して黙ったままコーヒーを啜った。濡れて冷えた体がようやく外からも中からも温まる。何かからヒナンしてきた私達は、ヒナン民のように寄り添ってただコーヒーを啜っていた。外の雨は時々まだ窓のガラスに当たって音を立てている。音を立てることのできない私達はただ耳を澄ませてそれを聞いていた。世間から身をひっそりと隠しながら、それを聞いていた。
「やまないな」「ああ、やまないな」ぽつりとそんな会話だけが時々繰り返される。どちらかがそう言うと、符合のように言葉が返された。足りない何かを埋めるような作業だった。


 やがてコーヒーも尽き、合言葉の応酬も尽きた頃、彼はつと立ち上がった。ふらりと、と言う表現が本当に似つかわしい足取りで、ものも言わずにダイニングキッチンから出て行った。トイレに立ったのかと思ったが、いつまでたっても戻ってこない。コーヒーのお陰で幾分冴え冴えとしてきた頭で考えた。考えたが、結局答えが出ずに、私もソファーを立った。ダイニングキッチンのドアを開けると、薄暗い廊下の端にある彼の寝室の前に立った。ゆっくり取手を持ってドアを開けると、中を覗き込んだ。
 照明の明かりの下、ベッドに斜めに体を横たえた彼の姿が見えた。片足の膝から下が、ベッドからだらりと垂れ下がっている。
 ベッドに近付くと、上から彼を覗き込んだ。そしてその側に腰掛けると、更に顔を近づけて覗き込んだ。
 瞼を閉じ、すうすうと規則正しい寝息を繰り返している。腹部はそれに合わせ、静かに上下している。安らかな寝顔だった。全く文句のつけようがないほど、安らかな寝顔だった。
 しばらく側に座って、その寝顔を覗き込んでいた。頭の芯はますますコーヒーの効果で冴えている。あまりに安らかな寝息に、冴え渡った頭が憎々しげな言葉を吐いた。
「誘っておいて、寝入るのか?」
 頬でも抓りたい気持ちだった。一人だけ冴えた世界に取り残しておくなんて、なんてヤツだ。なんでコーヒーなんて淹れたんだ。なんで部屋に誘ったんだ。涌き出てくる気持ちが胸のうちで尖った言葉になった。口先も同じように尖りそうだった。
 背を向けて立ち上がろうとした。力を入れて足を踏ん張ろうとしたはずが、何故か出来なかった。体がベッドに固定されたように動かなかった。見ると、手首に指が絡みついている。衝撃でたくし上げていた袖がその上に落ちた。
「べつに」瞑っていたはずの目がいつの間にか開いて、しっかりとこちらを見ている。
「誘った憶えはないよ」
 得意満面な笑みを浮かべている。その勝ち誇った顔に、罠に掛かった獣のような低い唸り声を上げた。
「ヒキョウモノ」
 その声を聞くと、一層満面の笑みを浮かべた。
 絡んだ指をふりほどいて、プロレス技を真似て肘から私は彼の体に落下していく。軽く笑い声を上げたあと、低く呻いて彼は腹部をさすった。そしてそのまま私の頬を両手で挟んで引き寄せ、接吻した。僅かな音でも立てることを恐れるような、静かで、長い接吻だった。


<09/02/08>