蝉時雨木々の間にひっそりと、そこへ訪れるだけの理由(わけ)を密やかにその胸に忍ばせた者だけを待つ、まるで存在の希薄なベンチがある。誰が置いたのかはわからないそのベンチには、小鳥や虫や犬や猫といった小さな生き物達が時折訪れて体を休める姿が見受けられる他に、予め定められた訳でも無いのに、ポツリポツリと一定の時間の間隔を置いては、俯いた背に荷を負い、一時の安らかで稀有な休息を希う旅人の様な重い足取りがやって来ては、在る者は丸い影を描いて組んだ指先の爪をじっと見つめ、また在る者はそのベンチに寄り掛かって、梢の先に広げた指の狭間から零れ落ちる様な澄んだ空の色を眺めた。 いつしか、その一時の時間だけ彼等の負ったその荷の一端をそっと支えてやるのがその寂れて人の世から忘れ去られたベンチの役割りとなっていた。 今そこには一人の少女がいる。 木々の梢に繁った色鮮やかな緑を揺らす風の音と、辺りの幹で逝く季節を惜しむかのように儚げに啼く蝉の声しか聞こえない。 暫く少女はベンチに浅く掛けたまま、頭上に行過ぎる白い雲の峰の聳える尖塔をじっと眺めていた。 しかしその目は雲を突き抜けて、もっと遥かな届かない世界へと思い馳せているかのように思われる。 緑を揺らす風は少女の眩い陽の光の色の髪をもサワサワと揺らして通り過ぎた。 暫くの後、少女はふと視線を伏せて、重ねた手の狭間にあるいとおしい存在にでも触れるかのような微かな戸惑いを以ってゆっくりと撫でる仕草を繰り返した後、それをそっと指から抜き取ると、膝の上の白い封筒に入れ、静かにそれをベンチの脇に置いた。その時蝉の啼き声が一層甲高く戦慄いて、少女はその方向に視線を向ける。 「一緒に啼いてもいいか?」 そう声に問いかけると、束の間声は啼き止んだ。 一瞬訪れた静寂の後、ゆっくりと引き摺るように啼き始めた声に呼応するかのように、四方から、あちらこちらから、ベンチを取り巻いて数々の啼き声が一斉に上がると、木々を揺らしてそれはまるで雨の飛沫のように少女の頭上から降り注いだ。 優しい雨に少女の心が緩んで頑なに結んだ筈の紐の結び目の一端が解けて行く。 「………。」 声は言葉にはならず、目を閉じて空を振り仰いだ少女は両手で自分自身を掻き抱くと、くずおれるように体を二つに折り曲げた。 啼き声は入り混じって空へ昇り、やがて雲の峰まで達すると、昇華されてまたいつの日にか雨となって地上に降り注ぐ。 置かれた白い封筒と、啼き続ける少女をベンチは静かに受け止める。 夏はもう、終わりだった。 <2005.08.20> *13話と14話の間の話のつもりで。 |