トルバドゥールと姫君/番外編 ― ローズ ―





 その楽器を目にした時、少年は忽ちのうちに虜になってしまった。
 落ちかかっている水の雫を縦に半分に切り取ったような(少年にはそう見えた)ボディに、平たくて長い板が取り付けられ、それは先端の方で直角に折れ曲がっている。ボディから長い板に添って幾本もの弦が張られたその先は、直角に折られた先端に水平に取り付けられた突起のある幾本もの棒に、それぞれ絡め取られている。ボディの裏面は下がぽっこりと膨らんでいて、まるで食べすぎた人の出っ張ったお腹のようだ。色は日焼けした肌のような茶色で、長い平板の部分はしっとりとした黒い色を帯びている。形といい色といい、見た事のないその美しい姿に少年は胸が昂ぶるのを憶えた。
 しかし何より少年の目を惹きつけたのは、そのボディの真中にある、花のような美しい文様だった。そっと顔を近づけてみると、それは薄い板に透かすようにくり抜かれた繊細な模様である事がわかる。まるで、楽器の表面に咲いた幻想的な花のように見えた。
「美しいでしょう」
 少年が振り返ると、異国の青年がそこに立っていた。長い金の髪に青い瞳、そして白い肌。一目で西方から来た者だと知れた。異国の青年は、壁に立て掛けられた楽器に少年が見惚れている姿を先程からずっと見ていたようだった。
「リュート、というのですよ」
 近付くとそれを手に取って、少年に見やすいように差し出した。
 差し出されたそれを、少年は覗き込むように顔を近づけて見る。何より、真中の透かし彫りにされた花を、しげしげと長い間飽きる事無く眺めた。
「この美しい模様は『ローズ』と呼ばれています。西の国の言葉で、『薔薇』と言う意味なのですよ」
 少年の様子を見ながら青年は微笑んでそう言った。
「ローズ?薔薇の花?」
「そうです。この国にも薔薇は咲くのですか?」
「うん、咲くけれど、でもこんなに綺麗じゃないよ」
 少年はそう言うと、不思議そうな表情をした。
 青年は尚微笑んだ。少年の表情が語らずともその疑問を呈している。
「この楽器が生まれた場所は、ここよりずっと西方だとされています。その地の薔薇は、この国の薔薇とは少し花の形が違うのでしょう。人がその国によって姿が違うように、花も姿形がまた違うのですよ」
「ふうん。なら、その国の薔薇は、きっととても美しいんだろうね」
 青年は柔らかく微笑した。
「そうですね。でも私はどの地の薔薇もそれぞれに、それぞれのたおやかさがあって、好きですよ」
 少年は青年をまじまじと見、そしてやっとその言葉を口にした。
「…あなたは?」
「私は――」
 青年は静かな瞳で答える。
「旅の吟遊詩人です」
 それが少年アスランと、そしてリュートとの出会いであり、そして生涯忘れ得ぬ師との出会いだった。




 しげしげと先程から模様を見つめているその姿に、アスランは微笑を浮かべている。
 昔の自分と同じような格好で、その少女はその楽器の透かし彫りの文様に見入っていた。
 きっと師もこうしてこんな気持ちで自分を見つめていたのだろうかとアスランはあの時の光景を思い出す。あの頃はまだ、数年後に自分がこうして違う地にいることなど思いもかけなかったことだ。
 ふと少女が振り返った。
「何だ、黙ってそんなところに突っ立ってるなんて悪趣味だぞアレックス」
 相変わらずの口の悪さにアスランは苦笑した。そして今呼ばれたその名が、かの地で呼ばれた自分の名ではないことに、改めて気付いたように思えた。
「あまりに見入っておいでだったので、つい声を掛けそびれました」
 微笑を湛えてそう答えると、近付いてリュートを手にし、少女に差し出した。
「この模様は『ローズ』と呼ばれているのですよ。薔薇の花を模ってあるのです。この楽器には全てこの模様が施してありますが、その由来は定かではありません。恐らくはこの楽器が生まれた地の薔薇を、製作者が何らかの意味でここに透かし彫りにしたことから始まったのでしょう。ただ私は、こんな美しい薔薇をまだ一度も見た事はありませんが。私の国の薔薇はもっと質素で、もっと小さな大人しい花でしたから」
 黙って模様を見ていた少女はアスランの言葉が終わるとつと目を上げた。
「…ちょっと待ってろ」
 そう言うや否や、急に踵を返して部屋を出て行ってしまった。また何か機嫌を損ねてしまったのかとアスランが訝っていると、程無くして少女は部屋へと戻って来た。手には一輪の花を持っていた。
 アスランの目の前にそれを差し出す。
「ほら。この国の薔薇だ」
 それは鮮やかに色付く美しい大輪の花だった。幾重にも重なる花弁が今正に開こうとしている様は、えも言われぬ程に美しい姿だった。
 そしてそれは、あの透かし彫りの薔薇の花を、まるでそこに取り出して具現化したもののようだった。
「この辺りの薔薇の花がもしかして、その由来とやらじゃないのか?」
 少女の言葉を耳にしながらアスランはその花を手にする。手の中のそれは、想像していたよりも遥かに艶やかで、そして幻想的だった。今まで見たどの花よりも美しいと言っても過言ではないくらいに。
 手にした花にアスランは暫く見入っていた。それは憧れた花に思わず出会えた喜びと言うものと、それとは別に、何故か不思議な感慨に捉えられていたからだった。その美しい花を見ながら、何故か彼は故郷のあの質素な花を思い出した。同じ薔薇と言う名を持つ、姿形の違う花。けれどもそのどちらも薔薇だった。
『でも私はどの地の薔薇もそれぞれに、それぞれのたおやかさがあって、好きですよ』
 何故かその時、師の言葉が心に思い起こされた。
 そしてその言葉の重さが今になって、漸く自分の心に沁み入って行くのをアスランは感じていた。
「なんだ、どうしたんだよ」
 花を見たまま黙り込んでしまったアスランの様子に、少女が今度は訝しげな目を向ける。
 それを見てアスランは微笑んだ。
「本当に、この辺りがもしかしたらこの楽器の故郷なのかも知れませんね」
 そして目を細めて花を見た。
「本当に綺麗な花ですね」
 その様子を見て少女は奇妙な顔をする。
「反対だろう」
「は?」
「普通は女が花をもらってウットリするもんだ。男が女から花をもらってウットリするなんて、変だろ」
「ああ、そうですね」
 アスランは少女の言葉にくすくすと笑った。それは清々しい響きを伴っていた。
「ではいつか、私が姫君に花を差し上げましょう」
 それを聞いた少女の顔が急にギョッとなる。
「冗談だろう?」


 同じ名を持つ姿の違う花。けれどそのどれもが薔薇である事に違いはない。
 師の言葉をアスランは心の奥深くに思い出す。
 二つの名を持ち、二つの姿を持ちながら、それでも自分もまた真には自分である事には違いない。
 生きる地により姿や名が違っても、それは自分以外の何者でも無いのだ。
 それ以外に成り得はしないのだ、と。


 『ローズ』
 それは生まれた地のその花を、ずっとそこに刻み続けた。
 例え信じる神が違っても、その姿だけは変わらずそこに咲かせ続けた。
 薔薇は、薔薇。
 人も神も国も越えて行く。
 古の人の心をその一輪の花の姿に模って。


「姫君を見ていると師を思い出すのですよ」
 サラリと金色の髪が振り返った。
「師も、姫君と似た金色の髪を持っていたのです。彼は西方から来た吟遊詩人でしたから」
「ふうん」
「でも性格は似ても似つきませんでしたけれども…」
「へえ。そんなに性格の悪い奴だったのか?」
 その問いに対する答えは返されず、代わりにシャランと幾本もの弦が幻想的な響きを掻き鳴らす。
 その音は砂漠を越え、山を越え、谷を越えて、ひっそりと咲くかの地の薔薇へと届くように。

 『ローズ』
 それは永久とわに咲く、不滅の心の花――。







<注釈>
*まだアスランが護衛になって間もない頃の話です。
*リュートのサウンドホールにある『ローズ(又はロゼッタ)』と言う花の模様が、その起源とされる中近東の『ウード』にもある、と知ったことから。
*薔薇の起源は意外とヒマラヤ地方だそうですが、どうやらヨーロッパや中近東で品種改良されてその姿は原種よりもかなり華やかになったらしい、ということから。
*そんなこんなを混ぜて捏ねて出来上がった話です。
*因みに、『ローズ』の模様の種類は今現在では、多種多様なようです。

<08/03/30>