その後姿が何となく印象的で、老人はつい声を掛けた。
旅装束の青年と思しきその後姿は老人の声に振り返り、姿よりも更に印象的な碧色の瞳を老人に向けた。その瞳は宵闇に輝く船の漁り火を受けて、美しい光を灯していた。
「何を見ているのかね?」
「船を。もうすぐ漁に出ようとしている船を見ているのです」
「船が珍しいのかな?」
老人のその問いに、青年は光を灯した瞳で微笑した。
「海に浮かぶ船を見た事がありませんでしたから。まだ海を知らなかったので」
「海を見たのは初めてかね」
青年は答える代わりに瞳だけでまた微笑した。
黒っぽい旅装束に染み付いた埃や薄汚れが、青年の旅の長さを老人に物語っていた。くたびれて擦り切れたマントの裾が、青年の体に寄り添うようにしな垂れ掛かっている。
「その格好では暑いだろう。この町は独特の凪のせいで、夜は暑くてな」
「ええ、少し」
そう言いながらも青年はマントを脱ごうとはしない。まるでそのマントによって何かから身を隠してでもいるようだと老人は思った。普段は旅人にまるで禁忌のように尋ねもしない事を、この青年に聞いてみたくなったのはそのせいかも知れなかった。
「あんた、どこから来なすった?」
青年の瞳は漁り火を映してゆらりと揺らめいた。月と星を抱えた空すら映りそうなほどそれは澄んで老人を見つめている。
「大陸の向こう、ずっと遠くの山間の町から」
「それで、海は初めてなんだね?」
「ええ。海は、ずっと見るのが夢でした」
「じゃあ夢が叶ったんだね、お前さん」
「ええそうです。長い間ずっと憧れていましたから。海も船も、まだ見ぬ全てのものも。世界中の全てをこの目で見たいと望んでいましたから。夢は叶ったのです。でも代わりに――」
青年は光の灯った瞳を真っ暗な空へと向けた。
「帰る場所を無くしてしまいました。…これはそう望んだ事への代償かも知れません」
その時漁り火が動いて船が静かに波の上を滑り出し、沖の方へと向かって漕ぎ出して行った。老人はこの青年の後姿にふと心惹かれたのは、拭い去れない衣服に染み付いた汚れに似た何か深い感傷のようなものをその姿に感じ取ったからかも知れない、と思った。長く生きていると見えないものまで多分に見えてしまうものなのだろう――。
そのせいかまた老人はつい青年に尋ねてみたくなった。
「これからどこへ行くのかね?」
そう問われた青年の瞳にもう漁り火は映らなかったが、代わりにそこに仄かに月の映り灯があった。
「――オーブへ」
「オーブか。ここからまだ西へ幾日だな。誰か知った人でも?」
「いいえ。あの国は余所者に寛容だと聞きましたから」
「ああ、そう聞いた事があるな。国王が寛容な人物らしい。ところで、一人旅かね?」
「いいえ、連れがいるのですが、今は所用で――」
そう言って青年は後に続く言葉を飲み込んだように口を噤んだ。
「彼を待っているところです」
「そうか。では気を付けてオーブに行きなさい。最近はこの辺りも物騒でな。旅人を襲う盗賊も多いと聞く」
老人の言葉に青年は微笑して頷いた。ありがとうございます、と言うと、軽く会釈した。
おや、と老人は思った。
しかし彼は素知らぬ顔で微笑を返すとそこをゆっくりと立ち去った。
そして暫く行ったところで立ち止まり、振り返ってみたが、既に青年の姿はそこに無かった。
老人は青年が会釈をした時の仕草が気掛かりになった。いくらマントで隠そうとしても隠せないものがあるのだ。本人の気付かないところでふとそれは表に現れる。生まれ持ったものとはそういうものなのだ、と老人は長い年月を経て様々なものを見続けてきた細い目を、一層細めて青年の居た場所を見つめた。
凪いでいる海の沖に、点々と灯った漁り火が揺らめきながら静かに流れて行く。
その灯を見る度に、老人はそれからいつも青年の事を思い出した。



――老人のその杞憂は、後にオーブの姫によって看破されるところとなるが、勿論彼はそれを知る由も無い。


― 「トルバドゥールと姫君」 過去話 ―