「蕭条の館」 第十幕に関する過去話 ―


「カガリ、こちらへ来てごらんなさい」
夫人の声に呼ばれてカガリはお茶の用意をしていた手を止め、「はい」と返事をして夫人の側へと歩み寄る。
窓際に立った夫人の影が薄く床に落ちていた。磨き上げた木目の床とその影の色が、午後の柔らかな陽射しになんて合うのだろう、とカガリは思った。そして夫人の柔らかな声。その全てが調和してこの屋敷の中に優しい一時を作り出している。カガリはこんな何でもない一時が好きだと思った。生まれてから今まで、このような心安らぐ場所を自分は一度も得た事が無い。
「ほら、見てごらんなさい。今年もあの花が咲きました」
そう言ってから、夫人は少し笑った。
「ああ、そうだったわね。カガリはあの花を見たのは初めてだったわね」
あなたが来てからまだそんなには経っていないのに、そんな気がしないのは何故かしら――夫人はそう言って朗らかに笑みを湛えた。カガリも微かに笑みを返す。そんな穏やかな会話と言うものをカガリはここへ来て初めて知った。ここは時間も空気も人も花も全てが穏やかさの中に在る。
夫人の、年老いて骨張った薄い手が、そっとカガリの背に添えられた。そのまま窓際の最も見晴らしの良い場所に導かれたカガリは、そこにある一本の木を見る。背の高い細い木の枝に、真っ白い小さな花が幾つも咲いている。それは小さな花束を沢山括り付けたように、幾つもの房となって咲いていた。
「あれはライラックと言うのですよ。毎年春を過ぎて夏がやって来る頃に花を咲かせるの。とても良い香りがするのですよ」
夫人の声を間近に聞きながら、カガリはその花が夫人の白い手を想わせる、と思った。それが何故だか自分でもよくわからなかったが、その清楚な白い花が、夫人の穏やかで品の良い手付きを思わせるからかも知れないと思った。今背に添えられているその手の温もりが、カガリの肌に伝わってくる.。それは心地良い温度だった。
「あの木は夫が私の誕生日に贈ってくれたものなのです。どんな高価な宝石よりも、何よりも私は嬉しかったわ」
夫人はカガリに微笑んだ。穏やかな陽射しの中で年老いたその顔は、まるで無垢な少女のように見えた。今までの夫人の人生と言うものが、この陽射しのように穏やかで、まるで優しい空気に包まれていたのだろうとカガリは思った。それは絵に描いたような幸せな日々だったのだろう。
先立った夫との思い出の中で生きている今でさえもそれは変わっていないように思われた。
「あなたが来てくれて良かったわ」
静かにそんな言葉が紡がれて、ふとカガリが花に遣っていた視線をまた夫人に戻すと、穏やかに見ている視線と目が合った。
「さあ、お茶にしましょう」
朗らかに言った夫人の言葉に促されて、カガリは「はい、奥様」とまた僅かに微笑むと、お茶の用意の続きへと戻った。
テーブルに置かれたティーカップの数は二つ。
それは主人と使用人が席を同じくすると言う、上流階級に於いては稀な、とても風変わりなお茶会だった。


夫人が病の床に就いたのは次の春が来る頃だった。
痩せた手が益々痩せ細り、白い手が透けるほどに白くなっても、誰一人として親族は見舞いに訪れなかった。
その時になって初めて、カガリは夫人の孤独を知った。
夫亡き後、子の無い夫人はどれ程の時間を深い孤独の中で過ごしてきたのだろう。白い花の季節を待ち侘びて、その姿はどれ程あの窓際で佇んでいたのだろう。
「もうすぐまたあの花が咲くわね」
病の床で夫人は弱く微笑んだ。その笑みはあまりに白く透き通ってカガリの心の底に焼き付いた。
病床からは見えない花が咲くのを心待ちにして、夫人は毎日花は咲いたかとカガリに訊ねる。その度にカガリは「いいえ、まだ」と答える。そんな会話が幾度も幾度も繰り返されたある朝、夫人の脈が弱くなった。カガリは夫人の床のすぐ側で、力を失ったその白い手をそっと握っていたが、ふと目を開いた夫人が、「花は……」と微かに唇を動かしたのを見て窓の外を見る。
花は、まだ咲いてはいなかった。
「花が咲きました、奥様」
カガリがそう答えると、夫人は満ち足りた笑みを微かに浮かべてまた目を閉じた。
そしてそれきりもう目を覚ます事は無かった。

人のまばらな寂しい葬儀が行われた後、カガリは一人屋敷に戻って来た。
この屋敷は夫人の遺言で、売却されその代価は救貧院に贈られる。
後の事は代理人がやってきて処理をするとの知らせが来て、カガリはすぐにもここを去らねばならなかった。
ふと庭のライラックが目に入る。カガリはそれを見ながらゆっくりと近付いた。
白い小さな花が、枝の先で綻ぶように一房花を咲かせている。まだ花の頃には少し早い時期だった。
「花が…」
そう呟いた時、カガリの目から漸く涙が零れ始めた。
泣く事を知らなかった心が初めて涙を流した。
その白い花の色が、あの穏やかで幸せだった時間を次第に思い出に変えて行く。
「――君」
そう呼ぶ声がして、カガリは振り向いた。
「君がカガリだね?」
一人の紳士が立っていた。葬儀の時に確か見た顔だとカガリは思った。
「私は夫人の古い知り合いでね。――君の事を夫人から頼まれていたのだよ」
涙を拭いたカガリが紳士に向き直った。
「ある館で使用人を探している。君を紹介しようと思うのだが」
至って善人面のその紳士は続けて言った。
「この辺りの権力者の館だよ。こんな働き口を得る機会は滅多に無いと思うのだが」



数日後にカガリはあの館を訪れる事になる。

それは運命が急激に流れを変えるその前の、穏やかで優しい僅かな時間だった。