月に照らされた温室は仄かな光を纏った花達のまた別の美しい世界だ、と庭師は思う。
昼の陽の光の下では見えない淡い色が、柔らかな月の光の中で目を覚ます。
それを一人静かに眺めるのがこの庭師のひそやかな日課だった。
密かに夜、温室に足を運ぶその姿は、まるで盗人のようだ、と庭師は自分で思う。自分の仕事場にこうして忍んで来るのは奇妙な事であったが、こんな趣向を館の者達が知ったら、忽ち笑いものにされるであろう事を彼は知っていた。彼は花達を心から愛していたが、館の者達は花をただの花としてしか見ていなかった。だから彼はそんな花達の、誰も知らないもう一つの姿を他の者に教える事は決して無い。一人だけで愛でる彼だけの世界だった。
その日は聖誕祭で、普段は静かなこの館でも小さなパーティーが開かれた。館の主人は今日も不在で、その奥方と11歳になる息子と、そして招かれた僅かな知人だけで祝う、それはささやかなパーティーだった。
それが終わって漸く館が静かになった頃、庭師はいつものように今日も密かに温室へとやって来た。
そして仄かに月明かりに照らされた空間に目を遣った時、彼はその隅に見慣れぬ物影があるのを見つけてギクリとなった。そして目を凝らしてから、それが小さな人影である事がわかると、今度はやや驚いてその人影に近付いた。
「一体こんなところでどうなされたので?坊ちゃん」
庭師が静かに声を掛けると、花壇の隅に座っていた小さな影は顔を上げ、そして微かに笑みを浮かべた。しかしその笑みは、月明かりの下で泣いているような笑みに見えた。
「うん……ちょっと……」
小さくそう答えると、また下を向いて黙った。
その様子に、何とはなしに心中を察した庭師は、隣に腰を掛けると、暫く同じように黙って花達を眺めた。
「夜の花はまた美しいでしょう」
暫くして静かにそう問いかけると、静かに答えが返された。
「うん…」
「私はこの花達の夜の姿を見るのが好きでしてね」
「うん…」
「昼の顔とはまた違う顔があるのですよ、夜には」
そう言うと、彼――この館のまだ小さな嫡子は庭師を見た。その瞳は感情を奥に押し込めたようにひっそりとしている。
「花達のそんな顔を、ただ月だけが知っているのです。月の下では花達は飾らない。陽の下では見せられない素顔を、月の光の下でやっと安らいで曝け出す事が出来るのです」
「…ジェームズは花の気持ちがわかるの?」
「わかるのではなく、彼らがそう語りかけているのですよ」
庭師のその言葉に、小さな嫡子は弱く微笑んだ。
「そう。言葉が通じなくても心が通じるんだね」
そう言うと、花に目を移した。
「ジェームズ、あれを一本……」
そう言いながら白い薔薇を指差した。
「…貰ってもいい?――母上に――」
その言葉はそこで途切れ、そして差した指はゆっくりと戻された。
「やっぱりいいや――」
小さな瞳は月の光を受け、そこに憂いを灯して微かに揺らでいた。そしてそれは静かに伏せられる。
庭師はそれを見て立ち上がり、側の白い薔薇を一本摘んだ。
「ではこれを私から坊ちゃんに。普通は女性に贈るものですが、今日は聖誕祭ですから」
そして花を差し出した。
小さな手がゆっくりと動いてそれを受け取ると、暫く眺めるようにしてから香を嗅ぐように、それを顔に近付けた。そして唇で触れると、その滑らかな肌を辿るようにゆっくりと動かした。
そしてまた花を見つめると、微笑した。それは月の光の下で優しげな微笑みに見えた。
「いい匂いがする……」
何をその香りに求めているのかが庭師にはわかり、けれどもその胸が詰まる想いは隠して微笑を返した。
「いつか坊ちゃんにもこうして花を贈る人が出来なさるでしょう。その時はどうかその方を大事にして差し上げてくださいませ」
抱擁を知らずに育ったまだ幼さの残る顔を見つめながら、庭師はゆっくりと微笑んだ。
「――うん」
手の中の花を見つめるその瞳はまだその意味を知らないままに、ただ仄かな光を浴びて咲き続ける無垢な白い花を見つめていた。


……………………………。


5年の月日が経っても庭師の日課は変わらない。今日も同じように月の下の花達をひっそりと眺める。
聖誕祭の頃になると、庭師はいつも思い出した。淋しげな、小さなあの瞳と、そして手の中の白い薔薇。
嫡子はあれ以来、一度もここへ来ることは無かった。
そして間もなく今年もまた聖誕祭がやって来る。
ふと、入り口付近に人の気配を感じて、庭師は目を凝らした。
小柄な影が入り口に凭れるようにして立っている。
「おや――」
その姿を認めると、庭師は微笑した。
「こっちへおいで、新入りのお嬢ちゃん」
入り口に佇んでいた影は、その声を聞くとゆっくりと庭師の方へと歩いて来た。
「隣に座ってもいい?」
そう言うと、庭師の隣に腰掛けた。
そして暫く黙って花達を見つめた。今日も月の光を淡く受けた花達は、その素顔をひっそりと曝している。
やがて、庭師の方を見た瞳は光の中で弱く微笑んだ――それはまるで泣いているように庭師には見えた。
「――失くしたものがあるの」
しかしそれ以上言葉は紡がれず、月の光の中で、また静かな時だけがそこを通り過ぎて行った。


― 「蕭条の館」過去話〜第十幕付随話 ―