コルセットの鳩目からメイドが紐を外して行く間、カガリはじっと立ち尽くしている。
その紐は、僅かばかり前に彼の手によって再び結び付けられたのだと言う事をまだ若いそのメイドは知らない。朝、自分が結んだそのままだと信じて疑いはしない。
メイドが一目外して行く毎に、カガリの体にその響きが伝わって、それはカガリにある記憶を再燃させた。
今自分の後ろにいる者が、果たして本当にメイドなのかとある筈も無い錯覚を起こしそうになる。
「…ジェシカ?」
と時に確かめるようにそのメイドの名を小さく呼ぶこともあった。
「はい、お嬢様」
娘らしい甘やかな声がすると、カガリは安心したように「何でもないわ」とまた黙った。
コルセットを外し終わり、夜着に着替えると、
「髪をお梳きします」
鏡の前に座ったカガリの後ろから、メイドがブラシを手にカガリの髪を梳き始める。
カガリとそう年の変わらないこのメイドは、まだアスハ家に来て間もない。カガリが養女になる前を知るメイドよりも、新しいメイド、それも年の頃が同じくらいの者がいいだろう、とのウズミの配慮で、ジェシカと言うこの新しく雇われた少女がカガリの世話係をする事になった。利発とは言えないが、穏やかで、優しい性格の持ち主だった。そしてやや物事に対する観察力が欠けていた。それがカガリにとっては何よりの救いだった。
カガリの髪を梳きながら、ジェシカは鏡の中のカガリの表情が次第に曇って行く事に、彼女としては珍しく気が付いた。
「どうかなさいましたか、お嬢様?」
そう声を掛けると、
「――いいえ」
そう言ってカガリは鏡の中で作り笑いを浮かべた。
「そうですか?お疲れになったのでは?」
「……そうね、少し」
曖昧に返事をすると、カガリは視線を落として黙った。そして膝の上で重ねた手を弱く握ると、何かを堪えている様子だったが、それを幸いにも――と言うべきか不幸にもと言うべきか、ジェシカが気付く事は無かった。
カガリは先程から辺りに漂うその匂いに心が乱されていた。髪を解き、ジェシカがそれを梳き出した時から辺りに満ち始めたその匂い。それは髪の中に紛れて、この屋敷の中まで忍び入ったものだった。
――移り香
そのよく知る匂いにカガリは眩んだように瞼を閉じる。もうその時は終わったというのに幻影はまだ自分を捕らえて離さないのか――
髪から立ち上る咽るような匂いは自分を包んで行く。
それは鳩目に紐を通し、自分を縛り付けていくあの手の動作に似ていた。一目、また一目と自分を縛って絡め取って行く――あの見えない手にずっと捕らえられている。
この移り香もまた自分を縛り付けるように纏わり付いて離れない。
カガリはゆっくりと顔を上げて鏡を見た。
「――ジェシカ」
「はい」
静かに呼ばれたジェシカは手を止めて鏡越しにカガリを見る。鏡の中でカガリと目が合った。
「髪はもういいわ。休みたいの」
「はい、お嬢様」
髪を梳くのを止めると、ジェシカは「それではお休みなさい」と挨拶をして部屋を出た。その時、鏡の中のカガリの表情が再び曇って行ったのに彼女はやはり気付かない。
そしてカガリを苛んだあの移り香の匂いにも気配さえ気づく事は無かった。
ただコルセットを外したその時に、今日は少しきつく締めすぎたかしら――と鳩目を通るその紐の強さに、心中でそんな暢気な事を呟いただけだった。


― 「蕭条の館」第四幕  幕間話 ―