ギソウ、ケッコン 番外編 「誕生日おめでとう」 そう言うと彼は嬉しそうに微笑んだ。 彼と『彼』はまたひとつ、年を重ねる。 私の、すぐ側で。 去年の彼の誕生日は、ただシャンパンを買って夕飯を作ってお祝いしただけだった。 私たちはまだ偽りの夫婦だった。 それでも彼は、その後で随分遅れた誕生日プレゼントを私にくれた。 青い石のついたネックレスだった。 今では私のお守りのようになっているそれは、初めて彼がくれたプレゼントだった。 彼が好きな外国の画家の描く青い色に似た石のついたネックレスを、私はとても気に入っている。 彼と出掛ける時は必ず身につける。 「いつもそればかりだから」 そう苦笑して彼はまた別の石がついたネックレスをある日買ってくれた。 今度はピンク色の石がついた可愛いデザインのネックレスだった。 正直、ちょっと私には可愛すぎるような気がしたが、素直に彼にそう言うと 「そう思うくらいがちょうどいいんだよ」 笑って返された。 自分で思うほど君はそんなのが似合わない人ではないんだから、と。 その時多分、私は少しばかり頬が赤くなっていただろう。 そんな面映い言葉をかけられるのは慣れてない。 慣れていないのに、偽装結婚がもう偽装でなくなってから、彼はどんどんそんな言葉を投げてくる。 投げられるばかりで自分からは何も返せない。 ただ赤くなったり青くなったり俯いたり反応に困っている私を、彼はきっと面白がっているのだろう。 そんな余裕しゃくしゃくの態度に少しばかり悔しい思いをするのも正直なところだ。 やられてばかりでは割に合わない。 けれども、とは言ってもやはり私は押されてばかりだった。 何につけても彼に主導権を奪われている。 「いいじゃない、それだけ想われてる証拠じゃないの」 友人はそう言う。 「男にそう思わせておくほうが楽なのよ」 そうとも友人は言った。 「俺が主導権を握ってるって思わせておくの。男って単純なのよ。それでいざと言う時にひっくり返してやるの」 如何にも楽しげにそう言う彼女の笑顔を見ながら、女のしたたかさというものを思った。 そうか、女は元来したたかな生き物だったはずだ。 普段はやられっぱなしでも、その底にしたたかさを隠し持っている。 友人から学んだ教訓(というほどのものを彼女は言ったと思っていないだろうが)を、私はしばらく胸の奥にしまった。「いざと言う時」が来るまで、もうしばらくは彼に主導権を渡しておこう。 こちらの反応を楽しむくらいの余裕を与えておこう。 『そのほうが楽なのよ』 そう言った彼女の言葉を思い返す。 いつかひっくり返すその日まで。 『男って単純だから』 友人のしたたかな笑顔がいつしか私のお守り代わりになった。 誕生日に何が欲しいかと聞いてみた。 今年の私の誕生日には腕時計をもらったから、こちらからも何かプレゼントをするつもりだった。 「御馳走がいい」 ただし家で、と彼は付け加えた。 また去年のように彼の好物を作って祝って欲しいと言う意味だった。 「それだけ?」 何か欲しいものはないのかと聞いてみたが、御馳走で十分だと彼は答えた。 「それがいいのだ」、と。 何か記念に残る物が良かったのに、と思ったけれど本人がそう言うのなら仕方がない。それ以上は何も言えなかった。 私の誕生日プレゼントとは比べ物にならないけれど(何せちょっとはするブランドものの時計だったから)、彼の希望通り家で彼の好物を作ってお祝いをすることにした。 彼の好物と言えばロールキャベツだ。 それに、シャンパン。 それだけでは割に合わないので(くどいようだが片やブランドものの時計だし)、オードブルを作ってお肉も少し焼こう。ちょっとしたコースのようなものに仕立てよう。それに、部屋も飾りつけよう。 記念の物はあげられなくても記憶に残る記念日にしようと思った。 心がこもっていれば高いプレゼントに相当するプレゼントになるだろう。 そう思いながら誕生日当日に向けて私は用意を始めた。 「誕生日おめでとう」 カシンとシャンパンを入れたグラスがゆっくり合わさる音が響く。 「ありがとう」と彼は嬉しそうに微笑んだ。 部屋中に飾り付けられた花やリボンやレースが特別な日を演出している。 まるで自分らしくない飾りつけをしながら「思うほど君はそんなのが似合わない人ではないんだから」と言った彼の言葉を思い出したりした。 彼がくれたピンク色の石のついたネックレスをつけた。そして少し胸が広く開いた白いニットを着たら、とても女らしい姿になった。可愛すぎず甘すぎず、とてもバランスがいい。 「そのニットととてもよく合う」と彼も褒めた。 組み合わせ次第で似合わないと思っているものも、そうではなくなるのだと思った。 それは人生全般に於いて何にでも言えることなのかも知れない。 例えば、彼と私。 このネックレスとニットの関係に似ている。 彼にそう言うと、「どっちがネックレスでどっちがニットなんだ?」と聞くのでしばらくそれについての論争になった。 オリジナルのコースに仕立てた料理をその間に次々とテーブルに並べては瞬く間に消えていく。 議論の最中に何度も彼は「旨い」とか「美味しい」と口にした。 それだけでこの誕生日プレゼントはもう大成功だった。 シャンパンを何杯かおかわりするうちに二人とも酔い始めた。 食べ終わる頃には椅子に座っているのも段々億劫になって、リビングに移動して絨毯の上にじかに座ってまたグラスを傾けた。 その内に二人ともゴロンと寝そべって、「親が見たら行儀が悪いって怒られるね」「牛になるって昔言われなかった?」と笑いながらそんなことを話した。 何だかとても気持ちが良かった。 こうして行儀の悪い事も一緒にしてくれる相手が隣にいることの、それはなんて幸せなことなのだろうと思った。 「でも子供が出来たらもう出来ないな」 そう言ってから彼はすぐに「あ」と言う顔をした。 私たちは結婚してから一年半が経つけれど、付き合い始めてからは――つまり偽装が偽装でなくなってからまだ半年ほどしか経っていない。普通とは逆行している私たちは、まだ付き合って半年のカップルと言ったところだ。 だから結婚はしていても、子供のことについては白紙だった。 彼も気遣ってそこのところは男としてきちんとケジメをつけてくれている。 私も生むとか生まないとか言っている訳では無いし、そのことについてはちゃんと話し合ったこともない。 あえて避けているわけではないけれど、まだ気持ち的にそこまで追いついていないという感じだった。 だから彼はうっかり子供の話を持ち出してしまったことに、「あ」と言う顔をしたのだ。 私はおもむろに体を起こした。 黙ったままムックリと起き上がり、キチンと正座をして宙を見つめてそのまましばらく何も言わなくなってしまった私に、彼はギョッとしたようだった。 彼も慌てて起き上がり、釣られたのか同じように正座をしてじっと私を見た。 「あの」 様子を窺うようにこちらを見ている。 明確になっていない問題を勝手に決まったことのように提示して、私が怒ったと思ったのかそれとも困っていると思ったのか、ともかく機嫌を損ねたと思ったのだろう、まずいことを言ったというような目付きをしている。 「私」 宙に向かったまま呟く。 「え」 彼が固唾を呑む気配がした。 「私」 また繰り返して彼を見た。 「私、子供を生む」 明確な口調でそう告げた。 酔っているのに、頭はやたらと冴切っていた。 何故突然そんなことを言う気になったのかわからない。 ただ、無性に今そんな気になった、それだけだった。 アルコールのせいなんかではない。 かと言ってただの気紛れでもない。 今彼とここにいて、こうしていて、そんな気になった。 ただそれだけだった。 「え?」 突然愛の告白を受けた人のように彼は何が起こったのかわからないような顔をしている。 「子供を生むの」 もう一度繰り返した。そして 「あなたの、子供です」 『あなたの』という部分を強調するようにゆっくりと言ったつもりだった。 ただ、酔いがまわった舌は少しもつれて、その重要な部分が思ったほど格好良く響かなかったのが残念だった。 それでも、告げられた相手は面食らったように目をみはっている。 息をするのを忘れているんじゃないだろうかと思った。 しばらくして、やっとまばたきをした。 「本当に?」 太ももに手を置いて、ゆっくり呼吸するように、おそるおそる訊ねる。 「うん」 大きく頷いた。 「本当に?」 もう一度聞く彼の顔はさっきよりも随分緩んでいる。 「何で?生まないと思ってた?」 「いや、いつかはそうなればいいなとは思ってたけど」 そう言って彼は左手で頭を掻いた。 「まさかこんなに早くその気になってくれるなんて思ってなかったから。それまでは自然に任せるしかないと思った」 それから私の手を取った。 そして真っ直ぐ私の目をじっと見た。 「俺の子を生んでくれますか」とまるでプロポーズのような言葉を真剣に口にした。 私がもう一度大きく頷くと、彼の顔が急に泣き顔に変わった。 『いざと言う時にひっくり返してやるの』 友人の言葉が響いた。 主導権がひっくり返った、まさにその瞬間だった。 「どうしよう、嬉しい」 酔いのまわった顔を更に上気させて、彼は両手を頬に当て、まるで女の子のような反応を見せた。 その仕草が妙に可愛くて、思わず私は手を広げて彼の頭を胸に抱き寄せた。 それは以前、『彼』によくしてやったことだった。 私の腕の中で彼は大人しく甘えている。 もし男の子が生まれたら、きっと『彼』に似ているに違いない――妙な確信がその時私の中にあった。 もう一度、私は『彼』に会うだろう。 きっと出会うだろう。 大人しく私に抱かれている彼の耳に口を近づけた。 酔いと高揚で赤く色付いた耳たぶが仄かに暖かい。 そして今日二度目となる言葉を囁いた。 「誕生日おめでとう」と。 それから、「大好き」だ、と。 (2011/10/30) |