web拍手過去ログ 06/08/15〜06/10/09
etude〜エチュード〜/赤い宝石
(祭りの夜T 道端の露店)
肌に張り付いていたじっとりとした湿り気が徐々に乾き始めた頃、空気の和らぎで夕闇の近い事を知った。
紺地の浴衣を纏い始めた彼女を視界の端に捉えながら、「シャワーを浴びてくる」と部屋のドアを閉じる。
何故だかわからないが、そこで見ていてはいけないもののような気がして、けれど本当は見ていたいと言う欲望が、そのまま自分の何もかもを支配していくのを目の当たりにするのが怖いような気がして、そこに自分を置いておく事さえ出来なかった。
シャワーの栓を捻ると、まだ温められていない冷たい水が途端に上から落ちてきて、色々なもので湿った膚の上を心地の良い冷たさで濡らしては滑り落ちていく。そしてすぐにそれは適度な温度を保った温水へと変化したが、手を伸ばして赤いほうのカランを締めると、また元の冷たい水へと戻って行った。
今はこの冷たさが自分にはいい。
そうしてずっと冷たい水のシャワーを浴び続けた。
すっかり冷えた身体に服を纏ってバスルームから出た頃には、浴衣を纏い終ってすっきりと髪を結い上げた彼女が、ずぶ濡れのままの髪から滴る雫を見て
「濡れ鼠」
と夕闇を背に声を立てて笑った。
誰の所為で、なんて事は、口に出して言えなかったけれど。
提灯の灯りがポツリポツリと暗闇に浮かんでいる。
路地のそこここから、いつの間に這い出したのか人の群れが寄集まって大きな流れとなって一つの方向へと向かっている。
町にある古い神社の境内では盆踊りが行われていて、そしてその近くの川辺ではやがて花火が上がる事になっていた。
その参道の途中の道の両側には露店が建ち並び、眩しい裸電球の下では真剣な面持ちで籤を捲っている子供や、危うく金魚の泳ぐ水槽の中に浸かりそうになっている娘の浴衣の袖を心配している母親や、また何味のシロップにしようかとかき氷屋の前で長い間迷っているカップルが、それぞれに祭り独特の雰囲気を醸し出している。
賑やかな人込みの間で、時折足を止めてそれらを楽しげに眺めては、その度に服の袖をつんと引っ張って目で笑い掛けてくる彼女の顔が、裸電球の灯りの中、結い上げられた艶っぽい髪型とは対照的に、何だか幼く見えた。
暫くして、手に持った団扇でパタパタと顔に送っていた風をふと止めてこちらを見ると、今度はその風をこっちへ送って寄越した。
「ずっと黙ってる」
少し膨れたようなその声に、そう言えばずっと言葉を失ったままだった自分に気が付いた。
「何かしようか?」
そう問い掛けると、ニコリと笑って指を差した。
「あれ」
指の先には、赤い鰭の付いた小さな宝石達がひしめくように泳ぐ水槽があった。
「……あれ…?」
「うん」
「…カガリが?」
その問いにまたニコリと笑って頭を振る。
「一杯捕ってね」
その一言で、小さな子供達に混じって手にした薄くて脆い網で、泳ぎ回る赤い宝石を真剣そのもので掬っている自分は、まるで人生の中の大切な選択肢を掬っているようだと思った。
泳ぎ回る幾多の分岐点。
薄くて脆くてすぐに破れてしまいそうな網の上で、それらを懸命に掬い集める。
やがて小さな器がその赤い色で一杯になった時、ふいに耳元で甘い声がした。
団扇の陰で囁かれたその甘美な耳打ちは、器の中の赤い宝石の艶やかな蠢きに似て、やがて身体の芯へと伝わっていく。
吊り下げられた白い電球の灯りの下、赤い色がやけに目に鮮やかで、それは手の上の水溜りの水面に幾多の小さな丸い紋様を描いた。
(06/08/15)
|