web拍手過去ログ 06/07/15〜06/07/22
etude〜エチュード〜/お天気お姉さん
(祭りの日の午前)
ベッドの上で今年初めての蝉の声を聞いた。
また、夏がきた。
「今年の夏は暑くなりそうです」とテレビから流れてくるお天気お姉さんの声に、毎年「今年は」と結局同じセリフを言ってるんじゃないかと内心ツッコミを入れてみる。
世界で日本でそして自分に何が起ころうとも、毎年暑い夏はやってくるのだ。
自分の何かが変わってもそれは変わる事無く訪れる。
出会って別れてまた出会って、そんな事を何度繰り返しても季節の巡りは変わらない。
人間一人の営みなんて宇宙的観点から見れば何の意味も無いように思われる。
だったら何で、そんな意味の無い事で自分達はずっと足掻いて生きているのだろう。
そんな足掻きが何かしらでももし宇宙全体に意味を成しているのだとしたら、一つの出会いや別れもまた違う意味を持って捉えられるのかも知れないが。……取り敢えずは短い一生涯でそこまでの域に自分というものを到達させる事が出来るのは、それはもう釈迦とかイエスとかの聖人の域の話になるから自分はここまでが精一杯だ。
その精一杯の中で精一杯に足掻いて生きる事が結局宇宙の塵としての与えられた運命なのかもしれない。
それが宇宙を形成している小さな小さなナノミクロン程の、意味の無いように思える部品の、実はそうでもない役目なのかもしれないのだ。
『バタフライ効果』と言う言葉がある。
『北京で蝶が羽ばたくと、一月後にニューヨークで嵐が起こる』と言う例えで表されるその言葉は、初期値の、測定できないほどの小さな誤差によって、のちのち予測不能な劇的変化を生み出すかもしれないと言う意味の言葉なのだが、そう思うと蝶のおこす羽ばたきでさえまったく無意味でもないと思えてくる。
そうすると宇宙の塵がおこす足掻きだって本当は無意味ではないのかも知れない。
お天気お姉さんが判で押したように言う「今年も…」と言う言葉ですら、実は一頭の蝶の羽ばたきかも知れないのだ。
結局は意味の無い事なんて、存在はしないのかも知れない。
「………あっつ……」
隣で顔を顰めて打つ彼女の小さな寝返りでさえ、多分、きっとそうなのだ。
いや寧ろ、それは俺にとっての『バタフライ効果』、か。
壁に掛けられた紺地模様の浴衣を見ながらそう思う。きっと彼女の髪の色に映えてよく似合うに違いない。
今宵は地元の夏祭り。
もう少しして昼食を兼ねた遅い朝食 ブランチをとったら、彼女はシャワーを浴びてあの浴衣に袖を通す。
そんな場面を春先までは想像もしなかった。
またいつも通り春が来て夏が来る、何の変哲もない季節がやって来ると、そう思っていた。
星の営みは変わらない。けれど人は変わって行く。
人は変わっても季節はまた巡る。
蝶が羽ばたいてもまた暑い夏はやって来る。
けれど、いつもとは違う夏。
俺達の蝶は、いつどこで羽ばたいていたのだろう ?
(06/07/15)
*カガリは浴衣持参でのお泊りであって、一緒に棲んでるわけではありませんー。(アスランは一人暮らし設定)
あ、虫は「頭」と数えるのだそうですよ(って前にも言ってたな)
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