etude〜エチュード〜/星に、願いを





転勤になってこの地へ来てから一年と少しが経った。
ここへ遣って来て、都会にいた頃と一番の違いをあげれば、それは自然がどこにでもあると言う事。普通に、地球の営みが日々肌で感じられる事、だった。それまでは、季節感と言うものはテレビを通じて感じ取るものが多かったのが、ここではダイレクトに視覚や嗅覚や聴覚、そして時に味覚を通して入り込んでくる。それが人間にとって、実はとても自然な事なのだ、と言う事に、この一年で体が気が付いた。昔から人はそんな自然の営みと共にあった筈なのに、いつの間にかそれを外れた暮らしで生きていけると思うようになった。体の中にある地球の回顧録と言うものに見向きもしなくなり、全く別の世界ででも生きているかのようなつもりになっている気がする。
だけれども、人だって本当はその自然の中の一現象なのだ。例えば季節によって体はその影響を受けるし、如実に作用される。一現象である限り、考えれば当たり前の事なのだけれど、それを人は不思議がったりするのだから可笑しなものだ。
それがこの地では自然に、ああそうなのだ、と受け入れる事が出来る。自分が一現象に過ぎないのだと、違和感無く受け入れる事が出来るのだった。
そしてもう一つの大きな違いは、家で待っている人ができた、と言う事。
仕事から帰ったら部屋に灯りが点いていて、食事の支度がしてあって、その日の出来事やなんかを話せる人がいる、と言う事。廻って行く季節を一緒に過ごして、一現象として共に在る事が出来る人がいる、という事。
何より、安らげる場所がある、と言う事。
その二つの事が結び付いて、今は自分にとって両方とも無くてはならないものになった。
仕事は思った通りに、というより思った以上に大変だったけれど、それ故に遣り甲斐も得ていたし充実もしていた。地方性の違いや地方故の厳しさ、というものに直面もしたが、そんなものにも漸く慣れつつあった。
時間が経つのは早いように感じるが、実際自分がここに来てから経験した数々の事を思えば、まだ一年しか経っていないのだ、と感じる事もある。時間の観念というものは不思議と常に一定では無いらしい。

取引先に向かうために車で町中を走っている時に、ふと目に止まったある季節の風物詩で、「ああ、そう言えば」と気が付いた。それは民家の庭先に立てられた、色取り取りの飾りを付けた一本の笹だった。
風に吹かれてサヤサヤと揺れる様子を見て、もうそんな季節か、と時の廻りを思った。去年はまだこの地に来たばかりでそんな余裕も無く、特に何もしない内に終わってしまったな、と思い出した。そしてその前の年は彼女と再会してまた付き合いだした時期であり、更に遡って数年前は丁度その直後に一度別れた時期だった、と何となく色々な事を思い出していた。つくづく、この季節的行事は俺たちにとって意味の深い、そして縁のあるものらしい。
今年はささやかでも、何かそれらしい事をしてみたら、彼女は喜ぶだろうか、と思った。
小さな笹でも買ってみようかと思いつつ、その日家へ帰ってみると、彼女が楽しそうな笑顔で出迎えた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
いつもの遣り取りだったが、声が顔と同じく何だか楽しげだったので、何かあったのかと着替えてからリビングに行くと、机の上に色鮮やかな数枚の長方形の紙とペンが置いてあった。
「あのね、もうすぐ七夕でしょ」
リビングと続きのキッチンで夕食を温めながらカガリが言う。
「去年は何もしなかったから、今年はせめてささやかに季節感を味わってみようかと思って」
そう言いながら、机の上の紙とペンを示した。
何だ、考えてる事が同じだったんだなと、思わず可笑しくなった。
「それに願い事を書いたら、ベランダの笹に吊るして来て」
「――今?」
「うん。私のはもう付けてあるから」
そうニコニコと笑って彼女は言う――けど、いや疲れてるし腹も減ってるんだから後でもいいじゃないかと思わず口をついて出そうになったけれど、折角上機嫌なところを損ねられて夕食にありつけないと言う最悪の事態になっても困る、と言う考えが頭をもたげて、ここは言われる通り素直に従う事にした……。
えーと、何を書こうか。
こう言う場合普通は家内安全とか健やかでありますようにとか景気が良くなりますようにとか世界平和、とか書くべきなのか?
あまりパッとしない文章ばかりが思い浮かんで(いきなりだし疲れてるし空きっ腹だし)、もういいやとばかりに、非常にポピュラーで在り来たりな文章の羅列となった。願いは平凡な方がいいのだ、と自分に言い聞かせつつ。
その平凡な願いの束を持ってベランダに出た。小振りの可愛らしい笹が、ベランダの雨樋に括り付けてあった。
色取り取りの笹飾りが、その小振りな枝一杯に賑やかにぶら下がっている。随分沢山作ったものだと感心しつつ、さてさて、カガリはどんな願い事を書いたのだろうかとその短冊に目を遣った。
途端に、目が釘付けになって暫く思考が停止した。

……え?
――え?
――え――!?

願い事の短冊を握り締めたまま、体を翻すと、思わずベランダからドタバタとリビングに走り込む。
「カガリ、ちょっ、て、アレ――アレ――?」
恐らく、日本語になっていない言葉を口にしながら、ひたすら指でベランダの方を指し示すと、待っていたカガリはニッコリと笑って答えた。
「うん、そう言う事なの。来年の春頃だって」
その笑顔を見ながら、頭が真っ白になっていくのがわかった。その真っ白になっていく頭の中を、沢山の天使達が飛んでいく姿が見えた。
その天使達は、背に真っ白な羽根が生えた、一様にオムツ姿の天使達だった――

それからよく世間一般で行われる(と思われる)光景と遣り取りが我が家でも行われた後、やや落ち着きを取り戻した俺はまだ手の中にある平凡な願い事の束に気が付いた。
「カガリ、紙」
「紙?」
「願い事、書き直す。て言うか書き足す」
先程温められた食事が再び冷めつつあった事も忘れてそう言うと、彼女が笑いながら紙をくれた。
けれど書きたい事がありすぎて、何から書けばいいのかわからない。
冷めてしまった食事を再び温めるために彼女がキッチンに向かい、その間考えあぐねた挙句に、やっぱりとても平凡な願い事を書いた。平凡だけれど、それを願って止まない事を、来年の今頃は新しい家族の願い事を書けるようにと、そして数年後には、たどたどしい字の可愛らしい願い事の短冊がそこに増えているように、と。

再び廻り来る季節には、笑顔が沢山増えているように。
いつの季節にも、その笑顔がずっと側にあるように。
そして願わくば、少しでも永くその笑顔を見ていられように。

星に、願いを――

ベランダでは沢山の笹飾りや短冊を付けた笹の葉がサヤサヤと揺れていた。


<07/06/30>



[etude]について
その後の話です。が、ここから先は管理人未体験ゾーンの為恐らく書けません。(この話もかなり苦しい)
幸せな家庭を築いて欲しいと願うばかりです。
蛇足ですが、今は携帯の時代なので、こんな古臭い光景ってもう無いのかもなと思いつつ書いてみました。
ところで、涼しげな色がいいと少し薄いですが、雰囲気のある和色を選んでみました♪背景は「藍白 あいじろ」、文字色は「錆青磁 さびせいじ」と言う色で、和色は情緒があっていいですねえ。