etude〜エチュード〜/Episode〜そして、春―Episode― 春。 遠く硬い冬の太陽が漸く和らぎ始め、冷えた水をその体温で暖め始める頃。 年に一度だけ、この国の全ては桜色に染まる。 冬を越えて待ち焦がれた人々の幾多の想いをその色に変え、木々一杯に花開き、幻のような耀きを残してやがて静かに風と散るその時まで人の心を魅了して止まない。 その様の儚さと美しさに人は暫し浮世を忘れてその花を仰ぎ見る。 そこに託す想いは様々に、ただその色に染められた一瞬の時をそれぞれの心に刻み込む。 その景色は淡い桜色の記憶となってずっといつまでも心の奥にひっそりと散る事の無い花を咲かせるのだろう。 ――その色が、彼女を包んでいた―… 高校生活を締め括る卒業式も終え、新たな人生への第一歩となる大学の入学式を待つばかりとなったある日。 「咲き急ぎの桜を見に行こう」 彼女からの電話で、春休みを迎えた学校の校庭で待ち合わせる事になった。 俺達が通っていた高校の裏手には小さな川の流れがあって、その両脇に続く小路に沿って古い桜並木があった。 もう樹齢も相当なもので、毎年春を迎える頃には長く伸ばしたその枝に見事に一杯の花を付け、路の上に桜色に続く長いアーチを作り出した。その下を歩けば空に広がる青さの中に散りばめられた薄い花弁が一枚の切ない絵のように見えて、何故か胸の辺りがいつもキュッと締まるのを覚えた。 その色に、何故か儚さと言う感慨を抱いてしまうのが不思議だと思った。 どう言う訳かわからないが、その並木の木々は他の桜の木よりも早くいつも満開になった。日当たりの所為なのか何の所為なのかはわからない。いつも一斉に花開くと、短い命をまた一斉に終えるように、その花弁を散らして路を桜色に埋め尽くした。だから毎年入学式を迎える頃には殆どが散っていて、折角の記念日に桜を背景に写真を撮る事が叶わないのだった。何時の頃からか、そんな桜の木々を人々は『咲き急ぎの桜』と呼ぶようになった。 「きっと今頃は満開だから」 嬉しそうに言う彼女の声が耳に当てた受話器の向こうでする。脳裏に甦った淡い桜色の景色の中でその声を聞きながら、俺はずっと受話器を握っていた。 先日卒業したばかりだと言うのに、何故か学校が酷く懐かしく感じられた。ほんの数日前までは、当たり前のようにこの校舎で日々を過ごしていた。その毎日がいつか終わってしまう事はわかっていたけれど、いざその時を迎えると、長く楽しい夢から覚めたような物寂しさと、もう二度とその暖かい揺り篭へは戻れないのだと言う哀しみにも似た気持ちがじわりと込み上げた。 校舎にも運動場にもその全ての場所にそれぞれの思い出があって、まるで昨日の事のようにそれは影となって目にする場所を駆け抜けて行く。校舎の影や昇降口の靴箱の前、正門の横の花壇や自転車置き場、体育館の裏の空き地の破れたフェンス、そのどこにもこの間までの自分の残像が見えた。 新しい月を迎えたならば、また新たな生徒達が同じようにここで時を過ごして行くのだろう。笑い、悩み、時には喧嘩して、それぞれの時代を作っていく。 一つの自分の時代が終わったのだ、と今妙に鮮明に心に感じられた。 風が一片の桜色の花弁を運んで来た。 「ごめん、待ったか?」 正門の方から彼女が手を振って駆けて来る。 花弁が、彼女の方へと舞いながら流れて行く。 「ごめんな、出掛けにキラの奴が急にCD貸せってうるさくてさ。探してたら遅くなった」 ああ、と俺は思った。彼女には双子の弟がいる。2年の時同じクラスだった。仲は結構良かったが、俺がカガリと付き合いだしてから彼は遠のいた。3年になってクラスが分かれたせいもあったが、それからは殆ど口を利く機会も無くなった。偶に廊下で擦れ違っても、チラリと視線だけを送って通り過ぎた。 その頃になって彼のカガリに対する特別な執着というものにやっと気が付いた。最も、当の本人である彼女は全く気付いてはいなかったが。 秋の長雨が続いたある日の放課後、先生との面談で帰りが遅くなって昇降口へ行くと、そこにキラが待っていた。その日はカガリは友達と約束があると言って既にいなかった。 姿を見ると、黙って彼は近付いた。他に人の姿は無かった。 「認めてはいない。けど、泣かせたら許さないから」 硬く引き結んだ唇を開いて低い声でそう告げると、クルリと向きを変えて出口から雨が叩きつけるアスファルトの道へと出て行った。その時の鮮やかな傘の青い色が、忘れられない景色となって心に残された。 それからキラと言葉は交わしていない。 「キラ、どうしてる?」 「毎日バイト三昧。新しいパソコン買う資金稼ぐんだってさ」 「ああ、彼電通大の総合情報学部だっけ」 「うん、デジタルゲーム学科。ゲームのプログラマー志望だからな」 高校生で既に簡単なゲームのプログラミングなんかをやってのけてしまうほどの頭脳の持ち主だった。よく作ったゲームをクラスの連中に配っていたっけ。 「双子なのに私はそういうの、全くダメでさ。一緒にゲームする度に、『何でこんなのが出来ないの』って怒るんだ、アイツ。世の中には出来ない人間もいるって事、わからないんだ」 そんな話をしながら、校庭を歩いて行く。裏の桜並木へは校庭を抜けて裏門から出るのが近道だった。 「それにしても何だか懐かしいな、学校。ついこないだまでここに居たのに」 先程自分が思った事と同じ事を彼女が口にした。ふわり、と心に風が吹いた。それは桜色にも似た、優しい風だった。 「少しの間離れてただけなのに、凄く長い時が経った気がするのはどうしてだろう」 そう言って校舎を見上げる彼女の姿が、ここで見る最後の姿なのかも知れないとふと思った。その瞬間に、今までここで過ごした彼女のいる風景がまざまざと心に甦った。その一つ一つが鮮やかな色や匂いを含ませて、胸を過ぎって行く。 「また、一緒に来ような」 急にそう言った彼女もまた、同じ事を感じたのかも知れない。ここは二人を繋いでいた原点だったから。 頷いて微笑み合うと、また一緒に歩き始めた。 裏門を出て、そこから緩い勾配を少し登ると、並木道に出た。 空の青い色を塗り替えてしまうほどの桜色が広がっていた。 「うわ、満開、だ」 空を見上げるように彼女はその桜色の木々を見上げている。 埋め尽くす花の一つ一つが可憐な形をそこに開いていた。それがまるで空に描かれた模様のように溶け込んでいる。 「綺麗……」 見上げたままその言葉だけを発すると、その儚い色に魅入られたように彼女はじっとそのまま立ち尽くした。 その姿がその色に包まれるような儚さを急に覚えて、ふと胸が締め付けられた。 何かを言おうとしても言葉にはならず、ただ彼女を見つめていた。 「『咲き急ぎの桜』って何だか哀しい印象の名前だけど、――私は好きだ」 そう言って顔をこちらに向けた。 妙に心臓がドキリと音を立てる。その言葉に答えようと唇を開いた。 「うん、――俺も好きだ」 その一言が唇から洩れた途端に体の芯がザワザワと鳴った。 嬉しそうに微笑む彼女の顔が、眩しくて思わず俯いた。 「歩こう」 促されて川沿いの小路を並んでゆっくりと歩いて行く。平日の昼間は人も少なくて、時々散歩の老夫婦や犬を連れた人と擦れ違った。穏やかな春の昼下がりだった。 「凄い、本当に桜色一色だな」 どこまでも続く淡いアーチに彼女が感嘆の溜息を漏らす。 「毎年見てる景色なのに、どうして見る度に心が動かされるんだろう」 ふと洩らした俺の言葉に、少し間を置いてから彼女が答えた。 「多分、――人の心が変わるから」 そう言った顔はどこか愁いを帯びて瞳は遠くを見つめている。 「景色は変わらない。でも人の心は変わって行く。この景色を見る度に前の自分と同じじゃ無い自分がいる――きっと来年この桜を見る私もお前も」 足を止めた。 「今の私達じゃ無い」 彼女から数歩行過ぎて足を止め振り返る。その瞳に映った儚い色が胸を衝いた。 「カガリ――」 名を呼ぶと儚さを映す瞳が揺らめいた。 「ずっと――ずっと一緒だよな―……?」 瞳の中の桜色が微かに潤んだ。 来月からはそれぞれ別々の大学へと進む。今までは当たり前のようにすぐ側に居られた。けれど、もうその時は終わってしまったのだ。それぞれ新しい環境の中へと身を置かねばならないと分かってはいても、その寂しさを今まで互いに口にする事は無かった。 「カガリ…」 また名を呼んだ途端、ザアと風が吹いて、頭上のアーチから吹雪のような花弁が舞い散った。 一面の桜色。 その色に覆われるように、視界が淡い色で包まれた。 そして彼女もまた桜色に包まれて行く。 舞い散る花弁が陽を浴びた美しい髪に降り掛かって、それはとても綺麗に見えた。 歩み寄り、手を髪に伸ばす。そして髪に付いた花弁を一枚ずつ指でそっと払った。 「変わらないよ」 指を動かしながらそう呟く。 「きっと変わらない」 ずっと花弁を払い続ける俺を彼女は黙ってその瞳に映し続けている。 その瞳に、堪らなく切ない気持ちが溢れて行く。 「――好きだ」 そう言うと払っていた指を髪に差し入れて、見つめていた潤んだ瞳が震えて閉じられると、桜色に似たその唇に自分の唇を重ね合わせた。 空からは桜の花弁が春の雨のようにずっといつまでも降り注いでいた。 ―数年後、現在― 「――転勤?」 携帯の向こうで、いつもより1オクターブ高い彼女の声がする。 「ああ――今日辞令が降りた」 突然の事に、言葉も無いように暫く彼女は黙っている。 「急に決まった事らしい。本来なら、もっと早くに辞令が出るんだが。向こうに急に欠員が出来たそうだ」 「――そう」 突然今日会社で上司に呼ばれ、事の次第を告げられた。行き先は地方の営業所で、本社とは違い、数名体制の小さな規模だ。今のように営業だけで無く、分担して他の業務にも当たらなければならない。規模は小さくてもその分忙しさは今よりも大変になりそうだった。「悪いな」と上司は済まなそうに言った。そしてそこの営業所長がとてもデキる人物であり、その下で働いて得る事が間違いなく将来の自分にとって得難い糧になるだろう事、その営業所が今社内でNO1の注目株である事を話した。「実はお前を名指しで欲しいと言って来た。どうも去年の暮れに、お前が走り回ったあの件をどこかで聞きつけたらしい。あの人に頼まれては俺もイヤと言えなくてな」そう言って上司は苦笑した。本当は手放したくはないんだが、……まあ暫く向こうで苦労して早く帰って来い、そう付け加えた。 「いつ、行くの?」 「引継ぎやら何やら終わってからになるから、多分5月になるだろうと思う」 「――そう」 また暫く黙り込んだ。 言い出すタイミングを計っていた俺は、漸く意を決してその言葉を告げた。 「――一緒に、来る?」 携帯の向こうの様子を窺ったが、言葉は返ってこなかった。 「まあ向こうにはお洒落なフレンチとかカフェとかそんなものは期待出来ないだろうし――あるのはここでは見られない自然が一杯ってとこだろうし。……早ければ2、3年で帰れるかもしれないから」 わざと気軽な口調でそう言ってみたが、相変わらず返事は無かった。 急な話の返事を今ここで相手に迫るのも酷だと、取り合えずは「話はまた会ってから」と言おうとした時、突然彼女の声がした。 「ねえ――『咲き急ぎの桜』を見に行かない?」 そしてそれはこう続けられた。 「だって次にまた見に行けるのは暫く先になりそうだし」 少し緩い勾配を登ると、昔と変わらない桜並木が続いている。今はそこに続く道が整備されて、高校の校庭を通らなくても川沿いの小路へとすぐに入れるようになっていた。小路も少し整備され、昔は無かった木製のベンチや小さな花壇が隅に作られている。 「変わらないけど、少し変わったのね、ここ」 その言い方に微笑した。『景色は変わらない』そう言った彼女の言葉が思い返されるのと同時に、流れた時間の長さを思った。 上を見上げると、花だけは変わらず、あの頃と同じに青空を桜色に染め抜いている。そのアーチがずっと向こうまで続いていた。 小路から下を見ればすぐに学校の校舎が見え、その横を春休みの部活中の運動部がランニングをしている姿が見えた。 「懐かしいね」 目を細めながら彼女がそう言った。それぞれ胸に去来する思い出と懐かしさに言葉も無く暫くその景色を見つめていた。 「歩かない?」 彼女が促して、頷くと並んで歩き始めた。 「そろそろ、行かないとなあ…」 そう言うと、不思議そうにこちらを見た。 「――カガリの家」 「あ、そうね」 漸く今気付いたように言った彼女の言葉に少々苦笑する。しっかりしているようで肝心なところで抜けているのだ。 「キラ、どうしてる?」 「うん、相変わらず。また新しいゲームのプロジェクトチームに入ったって」 彼は人気のゲームのプロジェクトに参加しているプログラマーで、今やちょっとした業界の有名人だった。 そのキラにだけは、彼女が俺との事を話したらしい。『二人とも懲りないね』そう言ったとカガリが笑っていた。 「あの子ももうすぐ彼女を家に連れて来るって言ってるんだけど…それがね」 溜息を吐いた。 「どうもプロジェクトで知り合った芸能界の子らしくて。そんな違う世界の子と付き合うのって何だか…結局あの子が傷付いて終わるんじゃないかって心配なのよ」 あの雨の日、硬く引き結んだ唇を開いて言葉を告げた彼の姿が思い起こされた。彼の意志は深い場所で静かにそのおき火を燃やしている。 「キラは君が思うより大人だよ」 「何で?」 驚いてこちらを見た。 その言葉には答えず、ただ微笑する。 その反応に少し剥れながら歩いていた彼女の足がふと止まった。 2、3歩行過ぎて、振り返る。 「ねえ――」 その時頭上から、舞い散る、花の雪。 走馬灯のようにあの時の景色が甦った。 儚い、淡い桜色。 それが次から次へとカガリの髪に舞い落ちる。 辺りを包む桜の色に、視界の全てが覆われた。 その中で、微笑んでいる彼女がいる。 「――ずっと、一緒だね」 舞う花弁が陽射しを受けてキラキラと瞬いた。 ゆっくりと歩み寄ると、髪に降った花弁を指でそっと払った。 『変わらない』そう言った自分の言葉が昨日の事のように思い出された。 「あの時と同じだね」 彼女の瞳がすぐ前で揺れている。 「覚えてる――?」 「うん――」 髪を払っていた指の背を滑らかな彼女の頬にそっと滑らせると、そのままその手を背に回した。 どちらともなく微笑み合う。 雪のように舞う花弁の下で、再び彼女の唇に触れる。 淡く切ない思い出が花と共に二人の上に降りしきる。 引き寄せた手と背を掴む手に籠められた力がその思い出を昇華して行く。 一片の花弁がそれを知ったように風に流されて空に舞い上がると、やがて青い中へ見えなくなった。 春は、また巡り来て――…… <07/03/11> etudeは取り合えずこれにて一区切りです。また何か書くかもしれませんが書かないかもしれません。 ゲームのプログラマーについて、友人の身内に実際その業界で有名な人が数人いますが、詳しい知識は無いのでそのへんはテキトーです… この話の背景色は和色の「桜色」です。本当に儚い色ですね…… |