etude〜エチュード〜/指輪とチョコレート





年が改まって暫くが経った。
今年の冬は例年に無く暖かくて、まだ雪らしい雪も降っていない。このまま春を迎えるのだろうかと思うと、何だか季節の巡りの境目が徐々に薄くなって来ているようで、世界的に叫ばれている『異常気象』というものをヒシヒシと身に感じたりする。
―−などと、季節の話などに興じたいところだが、実のところ今の俺にはそんな余裕は全く無かった。
世界的異常気象がどうであろうと、冬に雪が降らなかろうと、そんな事に構っていられる精神的猶予が全く以って無い。
理由は去年のクリマス・イヴに遡る。
色々とあって、本当に色々とあって、その日思い切りテンパっていた俺はその勢いも買ってとんでもない事をやらかしていた。今から思い返すと、よくまあそんな事が出来たものだと我ながら感心する。
アレだ、その、本来なら『給料の数か月分』とかいうヤツをちゃんと用意して、それから然るべき場所で、然るべき段取りを踏み、然るべき手順で、然るべき言葉を以って……と世間一般では言われているものを、何もかもすっとばして、道の真ん中でいきなりやってしまった俺は、本当に馬鹿だったと思う。
雰囲気も何もあったものじゃ無い。
ポカンと口を開けてただ俺を見ていた彼女の表情が、ずっと脳裏に焼き付いて離れない。
「……あの、暫く考えさせて?」
ややあってそう言った彼女の言葉が重く圧し掛かった時に、やっと自分の仕出かした事の重大さを理解した。
ああ、本当に何て馬鹿だったのだろう。
後悔先に立たず、とは正にこの事だ。
――でもあの時は言えそうな気がしたんだ。あの時だから言えると思ったんだ。
そう思ってはみても、結局何の慰めにもなりはしなかった。
その想いに輪を掛けるように俺を苛んだ事がもう一つ。
あの日買った指輪を、それ以来、彼女はまだ一度も身に付けてはいない。


年が明けてから、お互いに仕事やプライベートが忙しく、ほとんど会えないでいたが、その間にも彼女からは何の返事も無く、また反応も無い。
「暫く」とはいつまでを指すのだろうと、内心悶々として日を送っていたが、返事を強要する勇気も無く、ただどうしてこんな事になったのかと、ひたすら同じところをグルグルと回っている。「あれは無かった事にしてくれ」とでも気軽に言えたなら、どれだけ気が楽だろうかと思うが、今更そんな事を言えるわけも無く、『覆水盆に返らず』などと言う諺を思い出しては、その度に、どうしてあの時水を盆からぶっちゃけてしまったのかと、自分の行動に頭を抱えるのだ。
そんな自分を知ってか知らずか、彼女は至って何もかもが普段通りだった。
その変化の無さが、またしても俺を奈落の底へと突き落とすのだったが、それを表情に出す事も出来ず、ただ出来る限り平静を装う事に精神力を擦り減らした。
その内に衰弱し始めた神経のせいで夜もよく眠れなくなり、胃もシクシクと痛み始めた。
ああもうダメだ、俺。
そんな気弱さにヘタレそうになりながら、時は過ぎ、そして2月。


2月と言えば、街中どこを見てもチョコレート色一色で、この頃は電車の吊り広告を見てもテレビを見ても、どこからか必ず否が応でもそのイベントの宣伝が目や耳に入ってくる。
本来ならば楽しみにしている筈だったのに、何をどう間違ったのか、それが反対に今は苦痛にすらなっている。
それがまた胃を直撃して、俺は胃薬を見つめながら溜息を吐いた。
「14日、空けておいてね」
そんな彼女からの電話があったのは節分の日で、テレビで丁度、「今年の恵方は…」とニュースのアナウンサーが言っている時だった。電話を聞きながらその日が節分だなんてまるで忘れ去っていた俺は、思わず『豆まきでもすれば福が来るだろうか』、なんて末期症状的な事を考えていた。そして彼女の言葉を頭の隅で反芻してから、『14日』に於ける意味をその時やっと理解して、咄嗟に答えが出なかった。
「何、都合でも悪いの?」
返事が返って来ない事に疑問を持った彼女がそう尋ねる。
「いや別に」
そんな愛想の無い答えを返す間、本当は様々な思惑が頭の中を渦巻いていた。
もしかして、これは審判が下される日では無いのか――?
甦らせた死者に、永遠の命を与えるか、それとも地獄へ墜とすか、裁きが行われ『最後の審判』が言い渡される日。
天国か地獄か、そのどちらかが決する日。
瞬時にその事で頭が一杯になり、その後の会話を俺はほとんど覚えてはいなかった。
2月14日、水曜。
壁に掛けられたカレンダーの、運命の日となるやも知れないその日付をじっと見つめる。
「海苔巻き、……買っておくんだった……」
恵方は北北西、と先程のアナウンサーの声が耳の奥で木霊する。
そんなものに救いを求めて何になるのかと思いつつ、けれどかなり本気でそんな事を考えて、袋小路に追い詰められたネズミになったような、そんな後の無い気分のまま、俺は北北西の方に向かい缶ビールを煽った。


何がどうあっても予定の時刻に仕事を終わらせる為に、理由を付けて当日外回りからの直帰届けを提出した。
会社に戻ればまた雑務が待ち構えていて、なかなか帰してはくれないだろう。
人生の一大事なのだ、今日こそは何があっても残業などに捕まっているわけにはいかない。
最後の得意先を出た時、すっかり暮れた夜の空に、いくつか星が瞬き始めていた。
真っ直ぐに待ち合わせの場所へと向かう。
いつものあのビルの谷間の小さな公園。昔から変わらずに、そこはずっと二人の待ち合わせ場所だった。
入り口に立つと、いつものベンチに座った後ろ姿が街灯の明かりに照らされて見える。
白いコート姿に、少し伸びた髪が肩に掛かって、その色合いが夜の公園の景色に絵のように溶け込んでいた。
後姿が見えた時に激しく打ち始めた鼓動も、その静かで優しげな色合いを見ている内に、少しずつ治まって行く。
一体何度こうしてこの後姿を見てきたのだろう?
それはもう自分の中に結び付いた一つの風景として心の内にある。
例えこれから彼女との事がどうなろうと、この風景だけは一生心に持ち続けるのだろうと思った。
暫くその後姿を見つめた後、やっと思い切って一歩を踏み出す。
仄白い明かりに照らされた路を、ゆっくりと近付いて行く。
前に立った時、彼女は想いに耽ったような面持ちで、ゆっくりとした仕草で俺を見上げた。
「あ」
漸く夢から覚めた人のように短くそう言うと笑った。
その笑顔につられるように笑うと、彼女が言った。
「ちょっと座らない?」
いつもとは違うその反応に、トクリ、と鼓動がまた早く打ち始める。
黙ったままで隣に座ると、仄かに花の香がした。彼女が香を纏うのは自分が知る限りでは恐らく初めてだった。
「ここに来ると、何だか落ち着くの。ずっと昔から知っている風景みたいに」
そう言うと、彼女は小さく微笑した。
同じ事を考えていたその想いに、胸の中がふわり、と暖かくなる。
「色んな季節を、この場所と一緒に過ごして来たね」
その心の中の風景を一つ一つ思い起こすように言い、彼女は暫く黙った。そしてそれらの想い出の数を、心に浮かべる時間の分だけ目を閉じているようだった。
「あのね」
その言葉に彼女を見る。琥珀色の瞳が、こちらに向けられていた。
真摯なその眼差しに、早鐘のように鼓動が激しくなる。
「……これ」
コートのポケットから何かを取り出すと、それを手の平に乗せて差し出した。
それが何かを察した瞬間に、強張ったように体が動かなくなった。
そう言ったきり、手を差し出したまま彼女は黙って俺を見ている。
あの日買った指輪だった。
差し出されたケースは、紛れもなくあの日、店で確認したそれだった。
暫く固まったように視線をそこに遣ったまま、茫然自失の状態でそれを見ていた俺に、彼女が再び静かに言った。
「受け取って?」
その言葉に奈落の底に突き落とされながら、『最後の審判』が言い渡されたその裁きを、まるで遠い世界の出来事のように実感無く受け止めた。実感の無いまま、緩慢な動作で下された言葉の通り、そのケースを受け取った。
手の中の小さなケースはビロードの滑らかな膚を街灯の明かりに晒し、淡く光を放っている。
濃紺のその色が、凝縮された夜の闇のように見えた。
その闇に、突然細い月が掛かるようにして白い指が差し伸べられた。
「嵌めて下さる?」
まるで昔見た映画のヒロインのような少し気取った仕草で、その左手は差し出された。
一瞬何が起こっているのかわからずに、ポカンとした間の抜けた表情でその手を見つめた。
その様子に、彼女は少し首を傾げて微笑する。
「あの――これ、を?」
後で思い返すと、何て馬鹿げた質問だったのだろうかと思う。けれども、彼女は笑わずに頷いた。
その言葉をどう受け取っていいのか、甦りかけた死人のような心境で指とケースを見比べる。
「その――つまり、そういう意味、で?」
自分でも何を言っているのか既にわからない。はっきり言葉にしてそれを否定されるのが恐かった。
再び小さく首を傾げて、
「そういう意味じゃ、ダメ?」
と彼女は笑う。
もうどうしたらいいのかわからない。もはやショート寸前の脳は意味不明な言葉を弾き出した。
「いやでも、これって、そんなちゃんとした物じゃないし――」
「いいじゃない」
楽し気なその声が耳の奥を擽って行く。
「それがいいの」
そうして再び左手をヒラリと差し出した。
「ここで、それをして欲しかったの、貴方に」
そう微笑んだ顔が、また一つの風景となって、心の中に焼き付いた。
その後の事は天上で雲の上をフワフワと歩くように地に足が付かない状態で、あまりよく覚えてはいない。
ただその細い指に銀の輪を通す時、何故か物凄く緊張した事だけは覚えている。
そしてその後、ちゃんと貰ったチョコレートは、何となく勿体無くて、暫くの間食べられなかった。



「いきなりで吃驚したのは本当だけど」
お気に入りのカフェでお気に入りのケーキを頬張りながら彼女は言う。
数日前から彼女の左手の薬指にはしっかりと指輪が光っている。
「いろいろと考えたい事があったのよ。だって、仕事を続けるとなると、競合会社でしょ?やっぱりそれってマズイじゃない」
頬杖を付いてそう言った。
「考えたんだけど――今の仕事は嫌いじゃないけど、でもやっぱり辞める事にするわ」
そう結論を出すと、彼女はまたケーキを頬張った。
「いいの?」
そんな事など全く考える余地も無く起した自分の行動に、少し情けなさを感じながらそう言った。
「うん、いいのよもう。決めたから」
スッパリと言い放ったその言葉に、やっぱり自分は彼女には敵わないと思う。
「仕事はまたやり直せるけど、――」
フォークを握ったままこちらを見て、そしてクスクスと笑った。
「付いてるよ、口」
そう言うと手を伸ばして、指で俺の口元を軽く拭った。
なんだかはぐらかされたような気がして、その先が本当は聞きたかったのだと言えなかった。
でも言葉では無くとも伝わるものもある。
触れた彼女の指先の優しさに、今はただ満たされている。
それだけで幸せだと思える。
小春日和のような、そんな日がずっと続いて行くように。
巡り来る春を前にして、君の指に光る指輪を見ながら、そう想う――


<07/02/12>