etude〜エチュード〜/Xmas Eve全く最悪なイヴの始まりだった。 朝っぱらから鳴り響く携帯の音に安眠を貪っていた俺は叩き起こされ、そしてディスプレイに表示された取引先のその名前を見た途端、嫌な予感が走った。イヴの今日は日曜で、当然会社は休み。そんな日に携帯に直に掛かってくる取引先の電話なんていうのは、大抵ロクな電話じゃ無い。 止してくれよ、今日はイヴなんだぞ、オイ…。 そんな祈るような空しい気持ちでコールを繰り返している携帯の着信ボタンを押すと、まだ寝惚けたままの耳に向こうから怒気を含んだ声が響き渡った。その声を聞いた途端、自分の嫌な予感が的中してしまった事を知る。最悪だ。こんな日に。 ――クレームだった。 それも最大級の。 年末にかけて追い込みで多忙を極めるこの業界は、土日祝日なんてものは関係無く稼動している現場が多く、その為に納入商品は前以て休日前に発送しているのだが、どうやらその商品が誤って納品されていると取引先の現場監督が電話口で怒鳴っている。しかも、その仕事は何がどうあっても今日中に終わらせないといけない仕事なのだ、と。 ベッドに座ったまま返答ともつかない相槌と謝罪の言葉を繰り返しながら、朝の清々しい光の中で次第に目の前が真っ暗になって行く。徐々に覚醒して行く頭の中では、このクレームにどう対処すべきかと言う打開策を求めて検索が始まっていたが、その度に大きな問題にぶち当たっていた。 そう、今日は日曜なのだ。 日曜と言うと、現場は稼動していてもメーカーや商社はほぼ100%の確立で、休業日、だ。恐らくどこも営業していない。 では一体どうやって然るべき商品を今日中に入手するというのだ? 不可能に近い可能性に眩暈を感じながら、取り合えず対応策を講じて折り返し電話を入れると先方に言い渡し、まだ怒りの治まらないその声を聞きながら俺は電話を切った。そして携帯を見つめたままで、大きな溜息を漏らさずにはいられなかった。 今日はクリスマス・イヴなんだよ。 別にイエス誕生がどうとかそんな事はどうでもいいんだが。だけどイヴと言うと、やはり特別と言うか、清教徒では無くても何とはなしにそのイベントに参加しなくてはいけないような気がして、そして雰囲気を盛り上げる口実だとは思いつつ、やはりその色々と計画と言うものがあって――だな。 時計を見ると針は9時を指していた。 彼女との約束は11時。 ――絶望、だった。 重い気持ちで彼女の携帯の番号をディスプレイに表示すると、一呼吸をおいて発信ボタンを押す。コールの音が鳴っている間中、この情況を説明した後の彼女の反応を想像して益々気が重くなった。あれだけ楽しみにしていたんだからな。計画を立てている時の彼女の楽しげな様子を思い出して、胃のあたりがキリキリし出した。 「はい」 いつもの声が携帯の向こうからする。けれど、そこに僅かに「こんな時間に何?どうかしたの?」と言う怪訝な色が伺えた。そうだろうな、普通約束の日の、こんな時間の電話というのは余りいい知らせじゃ無い。大抵「遅れる」とか「予期せぬ事態が起きて」とか、そう言った類のものだ。そしてまさに今は、その後者であって――。 彼女のその声を聞きながら、まず、どの言葉を発しようかと頭では考えながらも、でもやっぱり唇は 「ごめん――」 と自然に動いていた。 「ダメですね、やっぱりどこも休みですよ」 受話器を元の位置に戻しながら、溜息と共に何回目とも知れないその言葉を吐き出した。 いつもは慌しいオフィスも休日の今日はガランとして寒々しく、俺と上司の二人だけしか姿が無い。 イヴの日に、しかも休日の日に、わざわざ仕事をしようなんて言う物好きはいないよな。なのに何で俺はここにいるんだろう…。 そんな遣り切れない思いに苛まれながら上司を見た。 あの後、すぐ上司に電話で事情を説明して、取り合えず会社に出て対策を考えようという事になった。 会社で落ち合った上司に、「今日は何か予定があったんじゃないですか?」と訊ねると、子供のクリスマスプレゼントを一緒に買いに行く事になっていたんだが…と頭を掻いた。「でも仕方が無いさ。子供が泣いても仕事だからな」そう苦笑してすぐに仕事の顔に戻った上司を流石だと思いながら、俺は彼女の事を思うとやはり割り切れない気持ちで一杯だった。「――そう」と電話口で短く答えた彼女の言葉がずっと何度も耳の奥で繰り返された。 思いつく限りの取引先を片っ端から電話し、それがダメなら(当然休みで)思いつく限りの取引先の人間の携帯に連絡を取った。そうこうしている間にも時間は無情に過ぎて行き、時計は昼を回っている。 本日中に何とか納品しなければ、その得意先との今後の仕事に支障を来たすのは必至だったし、けれど何より、請けた以上は責任の問題だ。正直を言えば今回の問題は、商品の手配をしたうちの会社のミスではなく、納品を依頼したメーカー側のミスだった。けれど現場の人間としてはそんな責任の所在は問題では無く、「仕事が出来ない」と言うその事実だけが問題なのだ。 肝心のメーカーの担当者は携帯が繋がらないし、呪いたい気持ちを抑えながらもうお手上げだ、と半ば諦めかけた時 「あったぞ」 と上司の声が響いた。受話器を片手に興奮した声で叫んでいる。 暫く電話の相手と遣り取りを交わした後、「今から取りに伺います」と述べて電話を切った。 ある取引先の人に紹介してもらった個人商店が休日も営業しているとの事で、そこに電話をして在庫を尋ねた結果、探している商品がある、との返事だったそうだ。真っ暗だった目の前に突然明るい希望の光が差してきた。イヴの今日、やはり神の御加護があったに違いない、とこんな時ばかりは勝手に俄か信者になったような気持ちで十字を切りたい思いだった。 この時間ならば、まだ、間に合う。今日の約束の「昼の部」はダメでも、「夜の部」には――。 「僕が取りに行って来ます」 そう言って上着を取って席を立とうとすると、上司が俺を見た。 「いや、それが――」 先程の興奮した表情とは打って変わって済まなそうな顔付きで、口調も何だか言い辛そうに口篭っている。 「その場所というのがな…――」 上司が告げたその地名を聞いた時、溢れていた希望の光が再び重く垂れ込めた分厚い雲のカーテンに遮られて行くのを感じた。あった筈の神の加護が自分の脇を摺り抜けて光と共に天へと消えて行く。 再び目の前は真っ暗な闇に閉ざされた。 そこは、飛行機のチケットが必要な場所だった――。 大きなツリーには色取り取りのオーナメントが飾られ、そして色取り取りの電飾がその周りを取り囲んで忙しく瞬いている。その忙しさが、今自分の置かれた情況と妙にシンクロしているように思えて小憎らしくさえ感じられ、横目でツリーを見ながらそれが飾られている空港のロビーを足早に歩いた。幸い、目的地への便には空席があって、チケットはすぐに取れた。そこへは1時間程のフライトだから、後は向こうでの段取り次第だ。とんぼ返りで帰って来て、その足で現場へ納品して――。 『君も今日予定があったんじゃないのか?』 と代わりに行く事を申し出た上司に、 『いえ、俺が行きますよ。課長は子供さん達にプレゼントを買ってあげて下さい。情況は常時メールで送りますから』 そうカッコをつけて言ってきたものの、内心では彼女に対する謝罪の念とか諦めの気持ちが、まるで洗濯機に放り込まれた衣服のように縺れながらグルグルと回っている。 ――何で、よりによって今日なんだよ? どこへも持って行き場の無い恨めしい気持ちを籠めて、やたらと大きいツリーを睨んでみる。するとその下で幸せそうな笑顔のカップルが記念写真を撮っているのが目に入って、余計にまた恨めしい気持ちで一杯になった――。 出発ロビーの椅子に座って携帯を取り出す。そして発信ボタンを押した。 程無くして出たその声に、今日二度目のその言葉を口にした。 「ごめん――」 窓の外に見えるのは白い雲一色だけの世界。 まさか自分が今日こんな光景を目にする事になろうとは、朝のあの時まで思いもしなかったのだ。あの時までは何て幸せな眠りを貪っていた事だろう。 今日一日の予定はほとんど彼女の希望によるものだったが、勿論自分だってそれは楽しみにしていたのだ。何せ、年に一度のイベントだし、この日は多少いつもと違う自分で演出出来る、数少ない日だったのだから。 まず、彼女が前から観たいと言っていた単館ロードショーの映画に行き、それから彼女が前から好きだったアクセサリーブランドの、予約済みの当日限定販売のリングを買いに行って、それから彼女のお気に入りのカフェに立ち寄った後に、彼女が前から行きたがっていたフレンチの店に行く予定だった。このフレンチの店は雑誌に紹介されていたとかで、イヴの日に予約を取るのは至難の業だったのが、キャンセル待ちでやっと取れたのだ。その時の彼女の嬉しそうな顔を思い出すと、遣り切れない気持ちで一杯だった。 携帯で朝事情を説明した時には、少しの間の後に、「――そう」と答えてから「大丈夫なの?」と問い返した。その「大丈夫」と言う意味が約束に関してでは無く、仕事に関してだとすぐにわかったので、少し気が楽になった。同じ業界に身を置く者としての理解と気遣いに、有難い、と思った。 どうなるか全くわからない情況に、取り合えず「昼の部」の予定はまず行けそうもない事を告げ、都度連絡をすると手短に情況を説明して携帯を切った。その時はまだ一縷の望みがあった。ある、と信じようと思った。 けれど、今自分は機上の人となっている。 先程空港から二度目の電話を入れて、今から向かう地名を告げると、流石に絶句したような間があってから、「そこ、寒いんじゃないの?」と予想に反した答えが返って来た。責めるでもなく恨みを言うでもなく、そんな気遣いの言葉が出るのが彼女らしい。ごめん、「夜の部」もダメかも知れない、そう言うと、「じゃあ様子を見てキャンセルの電話入れるわ」とサラリとした言葉が返される。 「気をつけてね」と最後に聞こえた言葉に危うく涙ぐみそうだった。 空港に降り立ったそこは――一面の真っ白な世界だった。 初めての北の地の寒さに凍えそうになりながら、タクシーに乗って目的地を告げると車は走り出す。タクシーのラジオから流れるクリスマスソングを聞くともなしに聞きながら、窓の外を流れ去る一面の銀世界に、今日と言う日に相応しい景色をこんなカタチで目にするなんて――と少し皮肉な気持ちになった。しかも俺、一人じゃないか――。 車は暫く銀世界の中を走った後、漸く目的地に辿り付き、停車した。 こじんまりとした店構えの戸を開けると、事情を心得た店の主人が出て来てすぐに商品を手渡してくれた。 ――ああ、これでやっと帰れるんだ……。 探していた宝物をやっと見つけたような感極まった気分で、その商品を大切に抱きかかえた。頬ずりしたいくらいの気持ちだった。 遠いところから折角来たのだからと、お茶でも飲んで行きなさいと勧める主人の言葉を丁寧に断って、すぐにまたタクシーに飛び乗った。 もしかしたら、間に合うかも知れない。 まだ、望みは残っているかも知れない。 そんな祈るような気持ちで流れ去る景色を眺めていた。 次第にその景色に白いものが混じるようになり、それは細かな点から大きな点へと変わって、横殴りに吹き付け始めた。 吹雪の中、漸く空港に辿り着くと、目の前の電光掲示板には無情な文字が並んでいた。 「天候見合わせ中」 加護どころか神に見放され、最後の一縷の望みも潰えたように、また真っ暗な闇の中に突き落とされて行く。 為す術も無く暫くそこに立ち尽くした後、ヨロヨロとロビーの椅子に辿り付き体を投げ出すように座り込む。 鈍い動作で携帯を取り出すと、今日三度目の電話を掛けた。 「ごめん――」 そして三度目となるその言葉を、また俺は口にしなければならなかった。 空の上から見降ろす都会の灯はまるでツリーのイルミネーションだった。 街全体が巨大なツリーのようで、建物や車がまるでそこに飾られた玩具のように見える。もしかしたらこの景色が、今宵最高のクリスマスイルミネーションかも知れない。最悪のイヴなのに、今日目にする景色のどれもこれもがこの日の雰囲気を最高に演出する景色だなんて。そしてそれを見ているのが自分一人でだなんて。切な過ぎる情況と今日一日の疲労がグチャグチャと相まって、目の前の灯が滲んできそうだった。 「当機は間もなく××空港に着陸致します」 感傷に浸っている耳に、そんな機内アナウンスが聞こえた。 あれから1時間程で飛行機は飛んだので、何とか納品は今日中に済ます事が出来そうだった。取り合えずその事にまず胸を撫で下ろしてから、三度目の電話での彼女の台詞を思い出して胸の奥がチクチクと痛んだ。 『じゃあお店にはキャンセルの電話をしておくわ』 事も無げに言ったその声の調子が返って胸に堪えた。 『家に行って待ってるから』 トドメを刺されたように本気で泣きたくなった。こんな情況下でもまだ『待って』いると言うその言葉に、ヤバイほどに感極まった。 全部ダメになったのに。 あんなに楽しみにしてたのに。 いや、――まだ、一つだけ可能性があるかも知れない。 ふと時計を見て、その可能性を探ってみた。 そして上着のポケットから手帳を取り出して、中から一枚の紙切れを取り出すと、閉店時間を確認する。 ――いけるかも知れない。 真っ暗だった目の前に、細い一筋の光明が射した。 既に見放された神に、最後の祈りを捧げた。最後くらい聞き届けてくれてもバチは当たらないだろうと、妙な理屈を捏ねながら――。 空港からタクシーをとばして郊外の現場へと向かう。 が、イヴの今日は道路はどこも渋滞、車はなかなか思うように進まない。焦りと苛立ちの気持ちを乗せた車は普段30分のところを1時間かけて漸く現場へと辿り着いた。 丸一日待っていた現場監督に深々と頭を下げて謝罪の言葉を述べると、思いの他柔らかな語調で言葉が返された。上司が情況を逐一報告してくれていたのだが、こちらのミスでは無いとは言え、誠意の在る対処だと少しばかり感激してくれたらしい。 「あんたも大変だったな、イヴの日に」 そう労をねぎらってくれた言葉に、今日一日の悪夢が報われていくのを感じた。やっと終わったのだ、長く辛い旅路が。 終わりを告げたその悪夢の結果報告に上司に電話を入れると、「すまん、ご苦労だったな」と言う労いの言葉と共に「お陰でプレゼントが買えたよ」と想いの篭った感謝の言葉が返ってきた。後ろでは楽しそうな子供の声が聞こえていて、その声を聞きながら、救われたように目の前の暗闇が薄っすらと晴れていくような、心地の良い感慨が胸に広がって行くのを感じていた。 再びタクシーをとばして街中に戻ったが、街中に向かう道路は更に渋滞で進まない。時計を見るともうあといくらも残された猶予は無く、気持ちは焦る一方で、もう神頼みに縋っている場合では無さそうだった。後は自分の力で何とかするのみだ。 出来るだけ目的地に近付いた場所でタクシーを捨て、そこから走った。 考えれば、最悪の日の今日、走ったのはこれが初めてだった。初めて自力で、必死で、目的地に向かっている。 擦れ違う人が振り返って見るほど、多分必死な形相で走っているのだろう。けれどそんな事には構ってはいられない。 ここで最後の望みを失えば、本当に今日一日の全てが、徒労に終わってしまうのだ。 そんな想いを抱えて必死に無様に形振り構わず青臭いドラマのように走って走って、やっとその店の前に辿り着いたのは、閉店の5分前だった。 アクセサリーブランド店らしい如何にも気品のある店構えの前で、肩で息を吐きながら上着のポケットから紙切れを取り出すと中へと入った。息が上がっているので言葉すら出せずに、無言のまま店員の女性に予約の引き換え券を差し出すと、チラリと俺の顔を見てからその店員はニコリと微笑んだ。 「少々お待ち下さい」 そう言うと、奥から小さな小箱を持って来た。中を開けて見せ、 「こちらですね?」 そう言う言葉にまた無言で頷くと 「今包装しますので少々お待ち下さい」 そう答え、程無くしてそのブランドの名前が入った紙の小さな手提げ袋を持って来た。 清算が終わって袋を受け取ろうとすると 「良かったですね、間に合って」 そう言ってまたニコリと微笑んだ店員の笑顔に、今日初めて心からの笑顔が浮かぶのを感じた。 電車を降りると、イヴの今日は流石に人出が多く駅は混雑していた。 ホームから改札へと向かう階段を人の群れに混じって降りながら、今朝絶望的な気持ちでこの階段を上って行った自分を思い返す。 何て長い一日だったのだろう。 そして何て大変な一日だったのだろう。 たった12時間余りの間に起こった様々な出来事が、まるで走馬灯のように思い起こされた。 長い夢から醒めた人のようにぼんやりと歩き、人の流れに沿って改札口へと向かう。見慣れた改札口を目にした途端に、ああ今やっと帰り着いたのだ、とじわりと実感が湧き上がった。 改札を抜けると出口へと向かって歩き出す。 待っているのだ、と思うとひとりでに足が速くなった。そのせいで、後ろから声を掛けられた事にも気付かなかった。 突然腕を引かれて振り返る。 「アスランっ――……」 久し振りに出会った人を見るような思いで、そこにある顔を見つめた。 金色の髪といい琥珀色の瞳といい、自分は随分長い間その顔を見ていなかったような錯覚を覚えた。まるで長い長い旅路から戻って来た旅人のようだ。 いつからそこで待っていたのか、頬は上気して薄桃色に染まっている。その顔が微笑んだ。 「お疲れ様――」 グニャリ、とその言葉に体の芯が一気に崩れていく音がした。 立っている事が出来ない程、グダグダに体中が溶けていくような気がした。こんな場所で、非常にマズイ――。そうは思いながら、でももうどうしようも無かった。 頭でそう思うと同時に体は既に彼女に向かって倒れ掛かっている。 いや正確に言うと、抱きついた、と言った方が正しいのかも知れない。 立っていられない程の疲労感に急激に襲われたのと、迷子になっていた子供がやっと母親の顔を見て安心して抱きついて泣きじゃくった、そんな感じに近い。 流石に泣きはしなかったけれど、密かに視界が僅かに潤んでいた事を彼女は知らないだろう。 そんな俺の背中に手を回して 「お帰り」 とポンポンとまるであやすように優しく叩くその仕草に、今度は本気で泣きたくなってしまったのだけれど。 手を繋いで帰り道を歩くと、冴えた空気に星が綺麗だった。 「雪、降らなかったね」 そう言う彼女の言葉に、一人見た雪景色を思い出して、ポツリポツリと今日起こった出来事を語り始めた。でも口から出た言葉は何故か不思議と愚痴めいた言葉では無く、空港で見たツリーの大きかった事、向こうで見た一面の銀世界の景色とそこに吹き付ける横殴りの雪の凄かった事、飛行機から見た街の灯がツリーのように見えた事、現場の監督が優しかった事、そして上司の子供が嬉しそうだった事、そんなことばかりだった。 そんな話を彼女は相槌を打ちながらただ楽しげに聞いている。 恨み言一つ言わない。 そんな様子に、返って次第に心苦しさを覚えてしまった俺は、やがて低い声で呟いた。 「ごめん、全部ダメになって」 もう何度言ったかわからないその言葉は、けれど何度言っても事実を消してはくれなかった。 それどころか益々傷を広げていくような気さえする。 敢えて触れなかった傷に、自分からまるで塩をすり込むように。 「いいじゃない、別に」 仕方ない、では無く、そう言った彼女の言葉が、嘘偽りの無い真実だと思えて繋いだ手の温もりがそのまま心に伝わって来るようだった。 「だって来年もあるんだし」 事も無げにそう言った彼女の視線が、微笑みながら俺の手元を見る。 「それに、全部、じゃ無いじゃない。買いに行ってくれたんでしょ?それ」 袋を見ながら嬉しそうに笑った。 その瞬間にもう全てが報われて、全てが救われた。闇は全て取払われ、やっと暗黒は去ったように天から明るい光が差し込んだ。 そんな感慨に一人浸っていると「ねえ、知ってる?」と彼女は星を見ながら言った。 「待っていればきっと帰って来るって信じて待つ事は、苦にはならないのよ」 そう言ってから、肩を竦めて「今日発見しちゃった」とチロリと舌を出した。 何も言わずにただ手を握り締める事しか出来なかったけれど、本当はただ抱き締めたい想いで一杯だった。 「あ、ご飯まだでしょ?」 その言葉に我に返る。 ――そう言えば。 「俺朝から何も食べてない――」 「え、嘘――?」 やたらクラクラと目が回るのはそのせいだったのかと今更ながらに思い当たる。 そう彼女に告げると「気付かなかったの?」と半ば呆れたように笑い出した。 そんな余裕は無かったんだよ、本当に。気付かないほどいろいろと考えることが有りすぎて。 有りすぎたんだ、本当に。 「フレンチには敵わないけど、御馳走用意してあるから」 そう言って走るように急に速度を上げた彼女に引っ張られ、縺れそうになる足を何とか動かしながら、結局いつもこうやってイニシアチブをとるのは彼女の方で、自分はそんな彼女に手を引かれているだけでは無いのか、と少し情け無いような思いに囚われた。――時には引っ張っていけるんだろうか、俺って。 そう思うと、繋いだ手をグイと引き戻したくなった。引き戻して、それから自分でも予想もしない言葉をその場で吐き出しそうだった。今こんな場所で言うには相応しく無いとわかっている言葉。 そうすると、彼女はどうするだろう? 多分、栄養素の欠けた頭での思考にはもう限界が来ているのだろう、この情況を後で思い出すとしたら、きっと平静ではいられないに違いない、そんな行動を自分は今仕出かそうとしている。 どうしようか。 引かれた手をじっと見つめる。 機会はすぐそこにある。 ゆっくりと手に力を籠めて、そしてさあ、後はそれを引けばいい。 ――彼女は何て答えるのだろうか? そんな事を思いながら、手は緩やかに彼女を手繰った。 <06/12/24> |