夢 の 女首もとのネクタイに手を掛けると、彼はそれをやや乱暴にシャツの襟から引き抜いて、ベッドの上に放り投げた。疲れた、と思った。続いて上着を脱ぐと、ネクタイの上にそれも投げる。軽い溜息と共に、投げ出したそれらの隣りに座り込むと、まるで待っていたかのように溜まっていた疲労がどっと押し寄せた。軽く目を閉じ、肩を落としてその押し寄せる疲労の波をしばらくやり過ごしていると、瞑った瞼の裏に何やらぼんやりと幾つもの色が浮かび上がる。それが何だろうと朧気に考えて、ようやく、「ああ、あの電飾の色か」と彼は思い当たった。ホールの真ん中に、無闇にその存在を誇張する大きなクリスマスツリーが設置されていて、そこに取り付けられた ゆっくり立ち上がると、窓際に歩いて行く。上級ランクのホテルの部屋から見下ろす街は、光に満ちている。繁華街の中心にあるせいで、夜景が綺麗だった。先程見たツリーの電飾に似て、それらは忙しく明滅している。けれどもそのひとつひとつの光は電飾よりも小さくて弱かった。 クリスマスだったんだよな、と彼は改めて思い出したようにその灯を見て呟いた。仕事のせいでそんな感慨に浸る間も無い。見下ろす通りには、クリスマスの雰囲気を楽しもうとする人々で溢れかえっていることだろう。そんな光景を思い浮かべながら、彼は今日のレセプションを思い出していた。何十人、ひょっとしたら百人余りの人間と言葉を交わし、顔触れを見た筈だった。けれどもその記憶は既にぼんやりと滲んではっきりしない。疲労の余り、頭が正常に働かなくなっていると言えばそうかも知れなかった。――けれども、と彼は思った。 彼女の顔だけは鮮明に覚えている――明滅する電飾の色の中で、それは強く印象に残った。 ――ああ彼女だ、とその時思った。゛あの女だ゛、と。 肩に掛かるセミロングの鮮やかな金髪と、珍しい瞳の色。その勝気な眼差しを見た時に、彼は直感的に思った。 夢の女だ、と。 ツリー越しに見えた彼女はブルーのドレスを着て数人の男達に囲まれていた。媚びるでも無く臆することも無い瞳で相手を見据え、時々小首を傾げて微笑を浮かべている。笑うたびに小さな赤い唇の両端が形良く上に向かって引き上げられる。 その笑い方に、確かに見覚えがあった。――正確には、ある、と思った。 彼の目はしばらく彼女に釘付けられていた。その後次から次へと目の前に現れる仕事の相手と挨拶を交わしながらも、彼の目は時々彼女を追った。 いつの頃からかわからない。その女が夢に現れるようになったのは。時々夢に出てきては、何かしら自分と会話を交わしている。何を話したのかはいつもよく覚えていなかったが、その笑い方だけは酷く印象に残った。目覚めた直後はどんな顔だったか覚えていた筈なのに、時間が経つといつも記憶は何故か朧気になった。いつだったか枕元に紙とペンを置いておいて、目覚めた時に女の顔を書きとめておこうとしたことがあったが、それもいざ書こうとすると、輪郭を書いている間にもう記憶は薄れて行き、結局覚えていたのは金髪と勝気な瞳と笑った時の唇の形だけだった。それだから、彼の彼女に対するイメージと言うのは、その三つの点に集約されている。そんな特徴に当てはまる女と言うのはどこにでもいそうなものだったが、それでも彼が現実に見てきた女達の中で、彼女と思わしき女は今までにいなかった。最も、そんな夢の中の女を現実に存在するものとして考えること事態、精神的にくだらなくて危うい行為だと思えたので、彼はそれを自分の心の問題だと片付けてきた。何かの要因が、そんな同じ女の夢を見させているのだろう、と。現実に浸りきっている彼にロマンティックな妄想を駆り立てさせる余地は無かった。むしろそんな思想に対しては以前から否定的だったし、馬鹿馬鹿しい、と思った。 その彼が、「あの女だ」と直感的に思ったのは不思議な感覚だった。何がそう確信させたのか、説明しろと言われても、多分彼は答えられないだろう。ただ心に酷く焼きついているあの勝気な瞳と唇の形が、まるでパズルがはまったように、「そうだ」と思わせたのかも知れなかった。けれどもそれも彼にはよくわからない。 人の顔を見過ぎて疲れているのだろうか、と窓の外の夜景をぼんやりと見ながら思った。 結局、彼女はレセプションが終わる頃にはいつの間にか姿を消していて、会場のどこにも見当たらなかった。どこの誰だったのか、人に尋ねようにも何と聞けば良いのかわからない。青いドレスで金髪の女性、ただそれだけでは他にも当てはまりそうな者がいそうな気がした。何せ人が山ほどいた会場だ。せめてどこの社の人間かだけでもわかればまだ望みはあった。――そう考えてから、彼はいつになく自分がロマンチストになっていることに気付いた。 「馬鹿馬鹿しい」 そう小さく呟いてから、弱く笑った。 窓際を離れて再びベッドの脇まで戻ってくると、シャワーを浴びようと思った。そうしてもう寝てしまおうかと思ったが、腕時計を見た。寝るにはまだ早い時間だった。 シャワーを浴びると、ネクタイは締めずにシャツと上着を羽織って、彼は階上のラウンジへと向かった。 エレベーターが開くと薄青い明かりが彼を出迎えた。トーンを落とした照明の塊りが、床の所々に落ちている。青い絨毯に青い壁と、青で統一された世界が海の中を連想させる、と彼は思った。 海の中に一歩足を踏み入れると、そこはもうすぐにラウンジになっていて、「いらっしゃいませ」と愛想の良い係員が品良くお辞儀をする。それから席に案内するために先に立って歩く係員の後ろを、まるで水先案内人の後に続くような気分で彼は歩いて行く。青く暗い海が果てし無く広がっているような奇妙な夢想が彼を捉えた。ふと、その海の中に、明滅する数多の光を見付けて彼は立ち止まった。薄暗い一角に、青く彩られたツリーが朧気に浮かんでいる。枝や葉まで青い色に染められたツリーに、白や青の電飾が取り付けられ、辺りに青白い炎のような灯りを放っている。それは水の底で見るクリスマスツリーのようだった。 「ああ、うん、明日帰る」 ツリーのすぐ側で声がした。 「明日だって。今日じゃ無いって言ってたの、もう忘れたのか?」 少々ぞんざいな口調のそれは女性の声だった。彼がその主の方を見た時、彼女もまた彼を見た。 青いドレスが周りの色に同調してまるで違和感の無い存在だった。だから近くに来るまで彼女の存在に彼は気付かなかった。 携帯電話を耳に当てたまま、彼女は彼と目が合うと、軽く会釈した。その仕草をどう受け取ってよいのかわからず、咄嗟に彼もまた会釈を返した。それを係員が何と思ったのか、「こちらで?」と彼女の座るカウンター席を示した。彼は一瞬逡巡した後、頷くと、彼女に近付いて行く。 「また電話する」 彼女の声がそう告げると、パチリ、と二つ折りの携帯電話を畳む音がした。 彼は不思議に思いながら彼女の席の隣りに座る。迷い無くそこへ座る自分が不思議だったし、また彼女の会釈の意味が謎だった。そしてその場所に、彼女がいることが、何よりも不思議だと思った。 隣に座った彼に、彼女は静かに微笑する。 「彼氏ですか?」 「いいえ、弟です」 いきなり不躾な質問だったかと思いながら、彼はそんなことを口にした。そして目は自然と左手の薬指に向けられる。そこには何もはまってはいなかった。 「あの会場にいらっしゃいましたよね?」 彼女の言葉に彼は驚いた。いつの間に自分は見られていたのだろう、と思った。それも、あの大勢の人の中で。 そしてその時、先程のあの会釈の意味を彼は理解した。彼女はただ礼儀的に会釈をしただけだったのだ。仕事の一環として。 「よく覚えていらっしゃいましたね」 「うちの社の者と話をしていらっしゃるのを見ていましたから」 「そうでしたか」 全く気付かなかった、と彼は思った。彼女も自分を見ていたのだということは、思いも寄らないことだった。そして一度は切れてしまったと思っていた彼女と自分を繋ぐ糸が、思わぬところで繋がったということに、また不思議な気持を覚えた。 「申し遅れましたけれど――」 彼女がバッグから名刺を取り出したので、彼も急いで名刺を探す。幸い、上着を着ていたのでその内ポケットにそれはあった。 渡された名刺を見ると、そこにはよく知る大手会社の名前と、初めて知る彼女の名前が記されていた。 そう言えば彼女の名前を自分は知らない、と彼は気付いた。夢の女の名を、まだ彼は知らなかった。 「あの、――以前、どこかで?」 名刺から視線を上げると彼女が小首を傾げてじっとこちらを見ている。 彼はその言葉が口を衝いて出て行きそうになるのをじっと堪えた。 『ええ、いつも逢っていますよ、夢の中で』 何と言う馬鹿馬鹿しい言葉だろうかと思った。馬鹿馬鹿しい上に、陳腐すぎて寒気がしそうだ。 そんな言葉を例え言ってみたところで、低俗な口説き文句だとしかとられないか、或いは無類の、処置の仕様の無いロマンチストだと思われるだけだ。 「多分、どこかのレセプションでお会いしたのでしょう」 無難な答えで彼は切りかえした。 じっと見ていた彼女の勝気な瞳が微笑した。 「ああ、そうですね、きっと」 形良く引き上げられた唇を見ながら、先程のどうしようもない馬鹿な言葉が心の底で燻り、もくもくと煙を上げているのを感じながら彼もまた微笑を返した。燻されていく心の内側が真っ黒く焦げていくような気がする。 それからは仕事の話も交えて、他愛の無い話をずっと交わした。業界の話題や問題など、普通の仕事上の接待と変わらない話が続いた。それから少し家族の話や趣味の話など、当たり障りの無い話題をぽつぽつと話した後、結構な時間が経っていることに彼は気付いた。腕時計を見ると、もう日付が変わろうとする頃だった。 少量のアルコールに火照った彼女の顔を見ながら、もうそろそろこの場を終わりにしなければならない、と思った。今は一旦別れてしまわなければならないが、名刺を手に入れたのだから、また逢う機会は幾らでも作れるだろう。ここで繋がりが完全に終わってしまうわけでは無い。彼女が夢の女なのかどうか、最早もうそんな事はわからなかったし、どうでも良かった。ただこの繋がりをこのまま断ち切ってしまうのは惜しい、そんな今までに無い気持を彼は抱いた。 「もう今日は遅い。そろそろ帰りましょう。部屋まで送りますよ」 レセプションに参加した人間のほとんどはこのホテルに泊まっている。 そう口にすると、彼は彼女よりも先に立ち上がった。 「――ねえ」 静かな声音がして、まだ座ったままの彼女を彼は見下ろした。 「本当に憶えてないの?」 見下ろす彼の目に、露を含んだように艶やかに濡れた瞳が見上げられる。 そして形の良い赤い唇がそう動くのが見えた。 「イヴの夜に、ここで逢おうとアナタが夢で言ったのよ」 濡れた瞳の中に、青白い電飾の瞬きが、海の泡のように明滅を繰り返していた。 その夜から、彼が彼女に夢で逢うことは、もう、無い。 <08/12/21> |