『4話で書かなかったエピソードを下宿の女主人視点で書いた話』




 下宿の女主人が自慢の庭の手入れをしていると、住人である青年が二階から降りてきた。青年は、この村の小さな学校で教師をしている。少し前に、他所の土地から赴任してきた、まだ若い教師だった。青年は下宿の前の庭を横切って、今から出掛けようとしているようだった。
 その姿に気付いて声を掛けようとした女主人は、青年がふと足を止めて、足元の花に見入っている姿に、微笑を浮かべた。青年のその花を見つめる姿が、何となく微笑ましいものに思えたからだった。真摯な瞳で、じっと花を見ている。まるで誰かの代わりのように、その花の姿を慈しんでいるようだった。
「お出掛けかい先生?」
 彼の世界の邪魔をするようだったが、女主人はそう声を掛けた。
 青年は気付いて、微笑を浮かべた。
「ええ、ちょっと借りていた物を返しに」
 そう言って掲げた手に持ったバスケットは、村の女性がよく使うものだった。
 ひと目見て、その返す相手が女性であることがわかる。
 女主人は、先程の花を見ていた青年の、慈しむような瞳を思い出していた。
 そしてその顔に笑顔を浮かべると、送り出す言葉の代わりに手を振った。
 青年もまた笑顔を浮かべると、
「じゃあ行ってきます」
 そう言って、外の舗道へと続く道を歩き始める。
 女主人はその後姿をしばらく見送った後、また庭の手入れに戻って草を抜き始めた。
 それからいくらも抜かないうちに、ふと外から近付いて来る足音があるのに気付いて顔を上げると、先程の青年が、またさっきの場所に立っている。
「あの」
 青年は少し口篭るように言った。
「花を、わけてもらえませんか」
 少々困ったような、はにかんだ顔をしている。
 その言葉を口にするのに、いくらかの気力を振り絞っているのが見て取れて、女主人は内心で微笑する。
「いいよ、どれでも好きな花を持っておゆき」
「この花を、少しわけてください」
 青年は足元のオレンジ色の花を指し示している。
 それは先程青年が、じっと見つめていた花だった。
「ああいいよ」
 女主人が笑顔で答えると、青年は嬉しそうに笑い、花を摘み始めた。
 そして摘んだ花を、手にしたバスケットに入れる。その姿の微笑ましさに、女主人は思わず訊ねてみたくなった。
「いい人にあげるのかい?」
 すると青年は、途端にまたはにかんだ表情になって答えた。
「いえ、そんなんじゃないんです」
 そう言いながら、摘んだ花をバスケットに入れるその姿は、その問いをまるで肯定しているようにしか見えず、女主人は益々内心で微笑する。
 いくらか花を摘んだ後、青年は一度バスケットを閉じかけた。
 そしてしばらくそれを見つめた後で、また女主人の方を見る。
「あの、もう少し、もらってもいいでしょうか?」
 おずおずと、懇願するようなその瞳に、女主人は噴出しそうになりながら、一杯の笑顔を浮かべる。
「ああ、もう好きなだけ、持っておゆき!」
 花で一杯になったバスケットを満足気に提げ、嬉しそうな笑顔になって、礼の言葉を述べた後にまた来た道を去って行く青年の後姿を、女主人は微笑んで見つめていた。
 あんな瞳では、否定しても全く意味が無い。
 言葉での否定を、体が全て認めてしまっていては、何もならないのだということを、彼は気付いてはいない。
 その微笑ましさに、若さと言う眩しさを久々に思い出しながら、女主人は花を見た。
 彼が摘んだオレンジの花は、夫が植えたものだった。
 今は、もういない。
 その時の優しい思い出が、花の色の中に鮮やかに甦る。
 しばらく花を見つめた女主人は、また微笑すると、庭の手入れをするために、元の場所に戻って草を抜き始めた。
 花は、鮮やかに、短い夏を彩っている。



(09/11/23)