街角のマリア
もう一枚の絵
「…では貴女は画家なのですか?」
「ええ……とは言っても、売れない女流画家ですけれど…。」
そう言うとその女性は、優しさを湛えた翠色の瞳を細めて微笑んだ。
口元に細い線が微笑によって数本描かれ、それはテラスから射し込んだ陽の光によって柔らかな陰影を帯びている。
それは部屋に満ちる空気に似て、とても優しい。
「夫が理解のある人ですから、こんな事でも気晴らしに良いだろうと、自由にさせてくれているのです。」
「それで絵を?」
「ええ…でも絵を描くのは、父のせいですわ。」
「お父上の?」
「父は画家でした。」
そう言うと彼女はまた目を細め、過ぎた日々をその瞳の奥で追っている。
「生涯派手な光は好まず、いつもそこにある自然な風景をありのままの光で描いた人でした。よく私達や母のことも描いたのです……そこにある一枚が、唯一私に残った一枚なのですけれど。」
彼女の視線の先の壁の絵は、母親と子供達のさり気ない風景を描いた家族の肖像画だった。先程からここに満ちる心地の良い空気の源は、この絵からもたらされるものだと言う事に初めて僕は気が付いた。
「父の絵は当時の主流だった華やかさや派手さは決してありませんでしたけれど…冬の陽だまりのような優しさが私は大好きでした。母は貧しい生まれの為にとても苦労をした人でしたが、父と一緒になってからもそう楽な暮らしとは言えなかった中で、私達5人の子供を育て上げました。文盲でしたが父に習って読み書きを覚えたり、…それは多くは私達子供の為にでしたけれど…いつも家族を支える事に大きな情熱と愛情を注いだ人でした。」
絵の中の景色に思いを馳せながら、彼女は今、その絵の中にいるのだと思った。
「私は5人の兄弟姉妹の中で、父に一番よく似ていると言われています。瞳の色も、髪の色も、そして癖や性格も。…絵の才能の方はあまり受け継がなかったようですけれど。」
そう言うと、僕を見て微笑んだ。
「お父上は優しいお顔をされていたのでしょうね。貴女を見ているとそう思います。」
「父の肖像画は無いのですよ。父は私達を描きましたが、自分を描く事は生涯有りませんでした。ですから、家族の肖像画のどこにも父の姿は無いのです。」
「家族を描くことにひたすら愛情を注がれていたのですね。」
「ええ。ですから私、今父を描いているのです。父と、そしてその隣に母を。二人が同じ絵の中に描かれる事は有りませんでしたから。それを覚えている私と言う存在がある内に、描き遺しておきたいのです。誰も私達の事など覚えていない時代が来ても、絵の中に遺された物語はずっと生き続けていますから。」
彼女はそう言うと、再び目を細めた。その中のまるで水晶のような翠の瞳が、キラキラと光った。
「父は昔、少女だった母を描きました。そしてそれが二人の出逢いでした。その始まりの物語を、お聞きになりたい?」
「ええ、是非。」
「それではその前に、お茶を入れましょう。」
彼女は柔らかく微笑し、部屋に射す陽だまりのような暖かい色の光の中で、まるで幼い少女のように映った。
それは一枚の、優しい絵のように。
後に僕はその始まりの物語を、一冊の本としてこの世に送り出す事になる 。
<06/02/04>
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